がん患者の父

娘が膵臓がんになった。まさかまさか、痛恨の極みです。

ステージ4

あまりにも衝撃的な手術中断だったので、家族みんなは平静心を失っていた。私も、そうだが、よくよく思い出すと、娘婿が主治医から聞いてきた結果報告のなかに、「膵臓がんのステージは4」だというのがあったのだ。


婿が低い声を、さらに押し殺すようにしゃべっているときに、私が話の腰を折って尋ねたのがステージだったのです。いまにして思えば、婿はこの病状の進行度を表すステージについては、話したくなかったのかもしれない。婿が医師から聞いていたのは、ほとんど希望の灯を打ち消すような悲しい数値であるからです。


健康者を0として、がん症状の進行度に応じて、1,2.3.4と悪性のレベルを上げる
ステージのことです。さるところの、がん情報センターの記述によると、こうだった。


1と2は、手術可能域
3は手術可能境界域
4は手術不可能域


私たちが、すがる思いで「今回の手術します」という病院の対応に期待をかけたのは、こうした知識を事前の知ったからです。


膵臓がんは早期発見が困難、症状を自覚したときは、すでに相当進行しているのだという知識とすり合わせると、「手術します」は、きっとステージ1,2の段階だと、祈る思いで、控えめに思いたかったのです。


4という数字。手術中断の知らせによって、婿殿も家族も一気に絶望的な境地に追い込まれたのです。手術が不可能となれば、あとは抗がん剤(化学療法とか薬剤療法とも呼ばれれる)療法か、放射線治療しかない。


話は逆戻りしますが、がんの自覚症状とか、健診で引っかかったというような予兆でもあ
れば、事前の入院先を検討できます。しかし、なんの病気かわからぬままに急性の激痛や嘔吐で緊急入院する先は選べない。


発症したとき、待ったなしで近場の病院に入院するや、すぐにがんを疑われて、次々と検査の渦中に入る。よくまあ、がんを疑ってくれたものだと感謝する一方、それほどまでに進行しなければ自覚症状が出ないがんの恐ろしさに戦慄します。


最初にがんの疑いを聴いたときから、私はセカンドオピニオンをぜひやる必要があると考えていました。それはいまのJ病院の医師や治療施設への不信というようなものではなく、あくまで複数の医師の見解をうかがいたということです。


というのは、私が脊柱管狭窄症で長く通院しましたとき、痛み止め、ブロック注射と治療を重ねても痛みが治らず、あとは手術だけかなという段階のとき、セカンドオピニオンを別の病院の医師に求めました。そこでの見解としては手術という点では同じでしたが、その別の病院へ転院した経験があるのです。


昔と違って別の医師の見立てを聴くことや、転院について、あまり義理人情の絡みや、もやもやした遠慮、気兼ねを気にすることが無くなっています。これは、患者にとっても、
おそらく医師にとっても、より良い治療方針を考える、いい傾向です。


私は、娘の症状についてのセカンドオピニオンを、できるだけ、がんの専門病院でしてもらいたいと調べることにしました。




手術の日 (下)

手術室へ消えると、付き添ってきた家族は、茫然とたたずむしかない。まるで俗界と聖界との結界に阻まれた感じ。みんな朝はやくから緊張してきたので、とりあえず院内のレストランでお茶でもと歩きだす。


レストランはまだ開店していなかった。隣のコンビニで暖かい缶コーヒーを各自で取り出し、廊下に並ぶ椅子に腰かけ一服していたら、なんとコンビニから白衣の主治医が、お茶のペットボトルを持って出てきた。


私たちは一斉に立ち上がって、「よろしくお願い申し上げます」と最敬礼。患者サイドは、いわゆる「わらにでもすがる想い」になっています。主治医を見送ったあと、6階病棟の控室へ移った。


テレビや湯わかし台が備え付けられている、わりと広い部屋。歩ける患者が来て、テレビを観たり、昼飯を食べたりすることもできるようだ。私たち四人はらばらに座って、会話もない。心配の限りを口にしてきたので、いまここでしゃべることは尽きている。


九時開始で10時間かかるとすれば、午後7時ごろまで待つわけだ。持参してきた司馬遼太郎の文庫本を開くが、いまいち気持ちが乗ってこない。つけっぱなしのテレビをちらちら眺めるが、朝からくだらないことで芸人がはしゃいでいる。まったくくだらぬ番組、つまらん芸人たち。テレビはろくでもないメディアだ。


昼、レストランでカレーライスを食べる。家内たちはうどんを選んで食べている。人はこんなに悲しいときでも、お腹がすく。人はどんなに怒ったり、悔しい気分になっていても、ノドは乾く。生きていることは、複雑なものだ。


午後はiPODにイヤホンをつなぎ、S&Gを聴く。私がなんども入院したときも、ベッドでこれを聴いたものだ。お気に入りの歌手なのだ。サイモンとガーファンクルの来日公演が、当時の大阪球場であったとき、スタンドの高いところで観覧したことがある。


私も若かった。手術室の娘は高校生だったか。バドミントンに明け暮れたのはいいが、部活の場にシャワーがないものだから、自分の汗でよくかぶれた。アレルギーの一種だろう。肌が赤くただれたこともあり、かゆいかゆいとかきむしっていた。家内が止めていたが、練習はやめない娘だった。


頓服や塗り薬のほかに温泉水がいいとか。海水がいいとかきくたびに車にポリタンクを積んで遠出したものだ。手のかかることといえば、そのことくらいしか思い出せない娘。


突然、婿が立ち上がった。つられてみんな立ち上がった。部屋の入口の主治医があらわれて、婿を手招きしているのだ。婿は一瞬、私を見、とまどった表情で主治医とともに出て行った。


おもわず壁の時計をみました。まだ午後2時まえではないか。えっ、早すぎる。予定では10時間ではなかったのか。なに、この事態は???。疑念が噴き出る感じ。早いのは、いいことなのか、芳しくないことか。二つに一つしかない。


開腹してみたら、予想外に進行していて手術を中断することも、よくあると聞いている。反対に予想に反して、症状が軽かったということもあるかもしれないが、、、それなら不幸中の幸い、嬉しい誤算といっていい。家内も長女も困惑したまま突っ立っている。


長く待ったような気がするが、婿が戻ってきた。ひきつった表情、顔色が白くなっている。とっさに、悪い知らせとわかった。婿を取り囲むように立ったまま、耳をそばだてて話を聴く。


「主治医の説明だと、手術を途中でやめた。切除しきれない転移がある。十二指腸とか、リンパ節とかに。膵臓からバイパスを起こしてつないだ」


衝撃的な内容です。なんということか。
「じゃや、こんごどうするの」と私。
「放射線治療よりも抗がん剤治療になると言ってました」


まったくの悲報でした。膝から力が抜けるような失意に囚われる。みんなもあまりにも予期せぬ事態の急展開に茫然、何をどうすればいいのか、できることはないのか、とまどうばかり。


「集中治療室に移れば、ちょっとだけ面会ができます」と看護師が伝えてくれる。麻酔はもう切れているのか。娘は早く終わった手術時間の意味を知っているのか。


集中治療室の娘は、脈や血圧などの測定器やチューブにつながれている。ベッドサイドに立つ夫(娘婿)をみると、手を握り、なにか弱々しい低い声で何か言っている。ベッドの足元側に立つ私たちにはっきり聞こえない。麻酔がまだ残っていて、もうろう状態なのかもしれない。泣いている。


泣き声まじりで聞こえたのは、「Hががんばっているのに、がんばっているのに、、」という言葉だった。この期におよんでも、一人息子のことが頭から離れないのだ。つらく、悲しい。姉も家内も泣いている。


うながされて私も娘の顔を見る。「よくがんばったね。大丈夫、大丈夫」と励ます。家内も姉も充血した目で、それぞれにやさしく声をかけた。娘は疲れ切っている。長居は無用だ。早くゆっくり眠らせてあげてと声をかけて、集中治療室を出る。


ほんとうに足取り重く帰途についた。娘が自宅にいなければ、婿と一人息子だけの暮らしだ。Hには、どう伝えるのか。自宅の炊事や家事のこと、長引きそうな入院にたいして、介助のこと、Hの夕食や週二回ある弁当持参のことはどうするか。サラリーマンの婿は、どこまで仕事を離れて動けるのか。考えなければならないことは、いっぱいあった。


それにもまして、いちばん気にかかることは、手術中断というような病変というのは、いったい、いつまで生きられるということなのか、余命はどうなんだ。みんな気にしていいるが、口に出した尋ねるのはためらわれる。婿は主治医から聞いたのではないか。バイパスをつないだということは、どういう意味なのか。婿は主治医から聞いたのではないか。ためらったけれど、婿もありありありと動転している。今日は尋ねられない。





手術の日 (上)

入院から十日目、朝九時から手術がはじまると本人から姉へメールがありました。医師から8時間かかる長丁場だといわれていたが、前日になると、10時間と修正された。手術時間がさらに長引くという予想から、いいニュースをくみ取ることは困難です。


うーん。声も出ない。10時間という長さに息をのむ。私自身は交通事故による右腕骨折や盲腸、それに脊柱管狭窄症の手術経験がありますが、これほど長い時間がかかるものではなかった。


娘は三十代半ばに椎間板ヘルニアで手術経験があります。もちろん、10時間に比べると短い時間で成功裡に終わっています。娘は、こういう予告をどんな思いで聞いて、どんなふうに気持ちを納得させているのか。また、娘婿(夫)のT君は、いかなる心境か。


いろいろと思いやっても、こうしたケースについては、当事者には聴けない。尋ねるのはむごい。残酷でさえある。アルコールを飲んで寝る。


早朝、私と家内と姉の三人は、電車を乗り継いで、J病院へ。まだ夜間非常口から入り、「手術関係者です」と名乗り、身分証明用の札を首から吊るして、エレベターにのる。だれも黙っています。6階で降りた。


娘は消化器内科の病棟から消化器外科の病室に移動していた。8時ごろから看護師やレジデントと思われる若い医師が娘をのぞきに来る。気分を尋ね、血圧を測るなど準備にかかるが、事前の導眠とか、軽い麻酔とかはしない様子。


最後に主治医がやってきて、「眠れましたか」と聞いている。頭の白いものが混じる、物腰が落ち着いたベテランの医師の印象。おそらく娘の手術グループのコンダクターなのだろう。主治医が去って、しばらくしてさっき血圧を計った若い看護師がきて、「さあ、まいりましょう」。


娘はふらりと立ち上がり、パジャマ姿のままゆっくり歩く。長い廊下を娘と寄り添う看護師、娘婿、姉、家内、そして私が無言のまま歩く。手術室は、3階にある。客用のエレベターは待っても動かない。後ろの患者搬送用の、つまり、ベッドのままで搬送できる大きさのエレベターで降りた。


手術室にはいる扉のまえで立ち止まる。看護師が「家族の方はここまでです。あとは控室でお待ち願います」と告げる。やつれた表情の娘がみんなの方にふり向いた。私の手をとって一言「Hをお願いします」。私も「心配するな」と一言。


Hとは、言うまでもなく一人息子、中一の孫のことだ。世間でいう「おかあちゃん子」で、娘もまた比較的おそくになってできたこの子を「息子命」とばかり可愛がり、育ててきた。この子には、まだ母親の病状を詳しく伝えていない。まだ冷静に伝えられる言葉も心も準備できていないのだ。


囲碁が強く小学生後半は三年連続、県代表で全国大会に出場したし、日韓親善大会でソウルにも行った。今春は難関の国立大付属に入学した。娘にとっても祖父にとっても家族一同にとっても自慢の子なのだ。なんとしても、その成長を見届けたい。


娘は家内と姉と握手を交わし、娘婿(夫)には両腕を広げて、肩をかかえて抱くようにハグをした。沈黙の時間。看護師に促されて手術室の扉の中へ消えた。あとは現代医学が到達しているがん手術が最大限に効果を発揮してくれることを祈るしかない。