ハリス・チュ―インガム
こどものころ、ハリスといえば、チューインガムのことでした。
アメリカの大統領選が迫っています。ハリスの名前をみるたびに、
タウンゼント・ハリスやら
エド・ハリスやら
も連想しますが、なんといっても、思い起こすのは、チューインガムですね。
なんのことか。若い方は首をひねるでしょうが、戦後,間もない時代をこどもで過ごしたものにとって、甘いものは、めったに口にできない宝物でしたね。台所を引っかき回しても、砂糖の一匙もありませんでした。そもそも、食べるものがなかった。うちが特別、貧乏であったわけでなく、どの家庭も、そうでした。
チョコレーㇳやチューインガムのような、魔法のような甘いものがあるのを知ったのは、進駐してきたアメリカ兵のおかげです。彼らは折り目がしっかりついたズボンを履き、大股でリズミカルに肩で風切る勢いで歩いていました。白人兵も黒人兵も、実にカッコよかった。負けるはずです。
茶色の紙袋をかかえているアメリカ兵に恐る恐る近づいて、モノをくれ、と手を出してねだった。正真正銘の乞食ですね。こども乞食です。慣れてくると、覚えたての言葉だった「ギブミー、チョコレート」とか「チューインガム」と叫んで物乞いをしました。
アメリカ兵は、日本人の若い女性、当時の表現では、パンパンと呼ばれていた売春婦ともつれるように歩いていました。ぼくは、その女たちを「お姉さん」と呼びかけていました。そういうとき、アメリ兵は、なぜか気前よく、チョコやチューインガムを路上に投げてくれた。争って拾いましたよ。気前がいいのではなく、ていよく追っ払われていたのですね。
大阪駅に近い場所だったので、旅館や行商人宿が路地に多くありました。そこへ米兵はパンパンと上がります。その姿を見つけると、長い間、路上にしゃがんで、彼らの”交尾”が終わるのをまちます。やがて二階の部屋の窓が開いて、熱冷ましなのか、胸まで裸の米兵とシミーズ(もう死語か)姿のパンパンが、そろって顔を出します。
待ちかねたぼくと友だちは、ここぞとばかり「ギブミー、チョレート」を叫んだものです。パンパンが、嬉しそうに乗り出して、投げてくれる時もありました。ぼくたちにとって米兵とパンパンは、とびきりのおやつをくれる神様でした。やむにやまれぬ事情でパンパンになった女と、若い兵隊は、遠い異国での束の間の気晴らしだったのでしょう。
ときおり、そんな場面に日本人のおっちゃん、おばさんが通ることがありました。しかし、注意されたことはありませんでした。日本人の大人たちは、米兵に関わることを避けていたようです。敗戦国のいじけて、生気のない国民になっていたのです。
(google画像検索から引用しました)
もらったチョコは、今でも覚えていますが、「ハーシー」でした。チョコ色の包装紙は今でも変わりません。チョコの名前はどうしても思い出せません。チョコの美味しさは、この世のものと思えぬもので、天国にいる幸せを与えてくれました。でも、残念なことにすぐに溶けてしまいます。
チューインガムは、甘味が消えても、いつまでも噛んで噛んで、楽しみました。夜、寝るときは、破った新聞紙に大事に包んでおいて、翌朝また噛みましたね。学校から帰ると、また噛みました。味は何にもありません。ただ、口にするものは、他になかったのです。
大阪の街には、戦後、米兵の数が増えたり、減ったりしながら、いつもいました。いまはビジネスビルと高級ホテルがある中之島にも米軍の兵舎がありましたね。イベント会場のフェスティバル・ホールも、以前はアイススケート場、その前は米軍の兵舎がありました。
キタの有名劇場は、日本人立ち入り禁止、丸ごと接収されてアメリカ兵と軍属用のPX(物品販売所)になっていました。国鉄(JR)の大阪駅と、その付近には薄汚れた乞食(ホームレス)が、打ち上げられたサカナのようにゴロゴロ寝ていましたし、阪神百貨店裏は、広い闇市でした。昼間はとにかく、夜間は客引きが立ち並び、男たちが引き込まれていました。客引きの女に「兄ちゃん、よっていくか」とからかわれましたね。中に入るのが恐ろしい朦朧の世界でした。
大阪駅西側、中央郵便局裏側には、堂島川から延びた船着き場があり、大きな掘割がありました。国鉄貨物車への荷揚げ場だったのです。そこに魚つりにいくと、いっぱい白い袋は浮いていてました。初めて見る珍しい形の袋でした。丈夫な袋なので、ふくらまして、釣ったフナなんかを入れて持ち帰ると、途中で出会う大人たちが妙な顔をして見守り、おばさんたちは顔をそむけていました。やがて、それは”イチャイチャ”に使ったコンドームだと知りました。あのころは、アメリカ兵も懐が寒いとときは、青姦が盛んだったのです。小学生のころ、いっぱしのワケ知りでしたね。
(google画像検索から引用しました)
朝鮮戦争が終わって、しばらくして、アメリカ兵らは引き揚げていきました。ギブミーの時代が終わったあと、登場したのが、ハリス製菓の「ハリス・チョコレート」でした。もちろん、国産初でした。おまけがついていて、おまけ欲しさに、ひんぱんに買っていました。
腹話術師が、ハリス坊やと言う名の人形を操り、奇矯な声で一等賞!と叫ぶコマーシャルは人気がありました。アメリカ仕込み?のチューインガム好きは、「ハリス・ガム」に続いて「ロッテ・ガム」も現れて、愛好しました。「ハリス」はいつの間にか「カネボウ」と合併しました。
いま野球選手が、よく噛んでいるのは、緊張を和らげるためでしょう。机にむかって勉強しているときに噛むのは、アタマにいい効果があるそうですよ。チューインガムやチョコレートを見ると、そんな効用のことよりも、敗戦国の情けない子供時代の記憶がよみがえります。
まあ、なんですね、戦争は、悲惨で過酷、何一つ、国民を豊かに、しあわせにする効果はありません。野心と権力欲にまみれた狂気の指導者に煽られて、その気になって、お先棒をふるい、ヨイショの旗をふったフツーの国民たちは、心身ともにボロボロになりました。それ以上に、その時代と戦後を過ごしたこどもに大きな影響を与えます。
こどもの頃に情けない卑怯な大人たちを見たり、屈辱の経験をしたせいか、あんまり人生に正面から取り組まなかったかな。「まあ、いいか」、「まっ いいか」、の来し方です。反省しても遅いですがね。戦争、あんなものはしない方がいい。したがる連中を国の指導者にしないことが、最善の不戦対策です。
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トリノ・五輪、金メダルの荒川静香さん、華麗なスケ-ティング。それにもまして「選曲」がよかった。「You raise me up」。心を打つ名曲の勝利でした。「支え、励ましてくれるあなた」とでも訳せばいいのかな。
マーチン・ハーケンス、
街角の足を止める堂々の声量、素晴らしいおじさんだ。
気をつけよう、汚染水