退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

愛しのテネシー・ワルツ

 師走の寒風をよそにコタツで丸まっている閑人の愛唱曲ならぬ愛聴曲の懐古談です。


 もし無人島に一冊の本だけ持っていけるとしたら、、、、、という話題づくりがあります。それにならって、一曲だけもっていけるとしたら、皆さんは、いかがですか、ぼくは迷うことなく、パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」ですね。


 戦後の荒廃がまだ落ち着かないころの中学生のとき、この曲に出会いました。ラジオから流れ出た曲がスーッと胸に入ってきて、震えが来るくらい感動しました。テレビもなく、CDもなく、余裕がある家ならレコード盤に針を落とす電気蓄音機(レコードプレヤー)があったかな、そういう時代でした。天才少女歌手というふれこみの14才、江利チエミのデビュー曲でした。(江利チエミは高倉健と結婚、その後、別れて若くして亡くなりました)


 その頃、ぼくは国鉄(JR)大阪駅前で父が経営する電気屋の二階の倉庫みたいな部屋で独り暮らしていました。なぜかといいますと、家族が学区外の遠くに引っ越しました。当時の決まりでは転校する必要がありました。それが嫌で、空いていた倉庫部屋に勉強机を持ち込み、独り暮らしをしていました。


 大阪市内の土地カンがある人なら見当がつくでしょうが、戦後とはいえ、一等地でした。そばに「旭屋書店」本店がありました。たぶん大阪では最初の大型書店でした。裏の路地をはさんで二棟の店内は分類された書棚が並び、本はなんでもある感じでしたね。ぼくは、ここで英語の文法書や漱石や雑誌「夫婦生活」などを立ち読みするのが日課みたいなものでした。(その後、旭屋書店は曽根崎警察署そばのビルに移転。最近、紀伊国屋書店の子会社になりましたね)。


 住んでいたその一帯は、その後、「ヒルトン大阪」ホテルの大きな建物がが陣取っています。ぼくは、そのロビーにあたる場所でに住んでいたことになります。ヒルトン・ホテルの前を通るたびに懐かしく往時をしのびますね。大阪駅周辺はビルが林立し、すっかり様変わりしてしまいました。


 当時の駅前のやや大きめの電気屋といっても、まだテレビも洗濯機も冷蔵庫という、のちに”3種の神器”と言われる電気商品はなく、蛍光灯器具にさえありません。主力はラジオとその部品(パーツ)でした。器用な人はラジオの修理や組み立てを自分でやっていました。ただ、電気屋ですから、一日中、ラジオが流れていました。そこで偶然聴いたのが江利チエミの「テネシー・ワルツ」だったというわけです。まさか生涯、大好きな歌曲になるとはおもいもしなかった。不思議な縁です。


 まずは、チエミの歌をお聴きください。




 チエミの歌は、メロディーにあわせて適当な日本語を「アテ書き」したものと英語のちゃんぽんでした。歌詞よりも、メロディラインが、なぜか胸に刺さった感じでした。すぐにこの本歌が、アメリカの女性歌手、パティ・ページのもので、チエミは、その真似であることを知りました。(まだコピーと言う言葉は使われていませんでした)


 「テネシー・ワルツ」は、こんなふうな歌詞です。


 🎵 恋人とダンスをしていたら、
偶然、古い友人に出会った
恋人をダンスのお相手に紹介したら、
盗られてしまった
失ったものはどんなに大きかったことか
あの夜のこと
テネシー-ワルツを忘れない


 まあ、盗られた本人からすれば、恋人の裏切り、盗った友人への憎しみがあってショッキングな出来事にちがいありませんが、無責任な第三者からみれば、ちょっとマの抜けた話でもあります。


 実は、この曲は最初は、カンツリー・ソングとしてリリースされていてトンマな感じを生かした軽い感じのものだったらしい。ところが、パティ・ペイジは、恋人を盗られたショッキングな悲しみを全面にだして、これをスローテンポのバラードふうに、しかも当時初といわれる音声を三回多重録音するというやり方で独特の重い悲哀感が漂う感じの歌い方をしたところレコードが大ヒット、全米から世界へ波及しました。世界中の大物歌手がカバーしました。


 余談ながら、あまりのも大きな反響が広がったことから、テネシー州当局は、この歌曲は州の誇りだとして州歌に公式採用しています。いったい、どんな祭典や式典に失恋の歌を演奏するのか、興味ありますね。アメリカ人って、面白いところがあります。コンサート・ビデオには、パティ・ペイジの歌を聴きながら、ハンカチで顔をぬぐうファンが映っています。やはり悲歌なんです。


 次は、その本命のパティ・ペイジの歌です。




 江利チエミがコピーした曲は、パティ・ペイジよりも明るく歌っていますが、ほぼメロディラインは変わりません。当時、陸上競技に熱中していて、ひとりで運動場を走りまわっていました。帰っても、だれもおらず、話しかける相手もなく、夕方、本屋で立ち読みするくらいの生活をしていましたので、この曲のようなメロディには救われました。


 その後、仕事の上でも暮らしの中でも喜怒哀楽のいずれかを感じているとき、この曲を聴くと、心が落ちつきます。だいたい好みの歌になるきっかけは、単に音楽的良し悪しよりも、出会ったときの心情にマッチするかどうかが、決め手になるようです。


 あれからウン十年、一体全体、何百回聴いたことか、半日、パティ・ペイジを聞いている休日もあって、数えきれないですね。連れ合いは、失恋の歌が、なぜそんなにいいのか、と無粋なことを言って、呆れています。友人のなかには,葬儀の際には,モーツァルトの交響楽40番を流してもらいたいというヤツもいますが、ぼくは、ひっそりとテネシー・ワルツを堪能したい。


 日本の歌手では江利チエミと”3人娘”といわれた、美空ひばり、雪村いずみたち大勢の歌手、なかには演歌歌手までカバーしていますものの、ぼくがiいちばん推すのは、綾戸智恵(旧智絵)の「テネシー・ワルツ」です。


 綾戸智恵は、若いころから アメリカで黒人霊歌(ゴスペル)グループで歌っていたセミプロでしたが、中年になって突然、日本の舞台に登場、ピアノの弾き語りで、ジャズふうにアレンジして歌う「テネシー・ワルツ」は圧倒的にすばらしかった。


 小柄な体から力強く吠えるように、まさに魂をこめた歌唱力です。大阪弁丸出しの軽妙なトークも面白い。むかし通っていた高校のいわば隣の女学校卒と知ったときは驚きました。地味な感じの女学校から炎のような歌手が誕生していたんです。「テネシー・ワルツ」は、歌い続けられます。


 南の無人島で、頭の上にヤシの実がおちてきて、お陀仏するまで聴いていたい曲です。



              本年も 閲覧していただき、ありがとうございました




来年も気をつけよう、汚染水と自公維国!!
夏には参院選挙、裏金、世襲、タレント、差別議員を追放しましょう。

×

非ログインユーザーとして返信する