退屈な80代

           還暦、古希、傘寿を経て、日々の所感を綴ります。

人生の終わり方

usagi






 今年の「毎日映画コンクール大賞」を獲得した『』をアマプラで見ました。

                      

                                 (google画像検索から引用


 元大学教授、77才、妻に先立たれて、古い屋敷に一人住まいの男の日常が、だんだん現実と妄想の区別ができなくなって、狂おしく振る舞っていくさまを丹念に描写しています。


 男は、朝、コメをとぎ、手を添えて洗い流し、炊飯器にかけ、塩ジャケを丁寧に焼く。食卓で背筋を伸ばして、しっかり噛んで味わう。時には、ざるそば、冷麺だったり、麺類が好きなようだ。夜は鍋もののときもある。食後、丁寧に歯を磨く。


 食事のあとコーヒーを淹れて、パソコンに向かう。昼は買い物に出て、キムチが辛いかどうか、店員に確かめてから選んだり、ワインの瓶を裏表みてからカゴに収める。万事慎重で、そつなく、手馴れている、、。もう20年近い一人暮らしだ。本人は預金の残高と人生の終りが一致するといいと考えている。


 あるとき、パソコンに「敵がやってくる」という発信者不明のメールをみたころから、おかしくなり始める。かつての教え子の女性と食事したり、酔った教え子にまんざら下心がないとは言えぬ振る舞いをしたり、それを冷ややかにみる亡妻が現れたり、教授を慕うバーのバイト女性に頼りにされて300万円もの滞納学費を肩代りし支払ってやり、再び会いに行くと、店は廃業して女性はいなかったり。


 自宅に現れた侵入者と格闘、殺して遺体を引きずっていき、教え子の手で井戸へ投げ込んだり、玄関脇の塀に隠れるようにして道行く人をさぐったり。これらのシーンがすでに現実なのか、幻視、幻聴か、妄想か、見ている方も、どっちか、しごくあいまいになります。


 こういう老いた男ないし女の晩節を描いた映画は,洋画邦画を問わず、無数にあります。その意味では、題材も物語も決して新しくない。小説でいえば、有吉佐和子の『恍惚の人』以来、掃いて捨てるほどある。萩原浩の『明日の記憶』、中島京子の『長い別れ』なんかも映画化されている。アメリカ映画『アリスのままで』は名作でした。


 映画『敵』の場合、原作はミステリー作家、筒井康隆の平成10年の小説。したがって、携帯電話など小道具は古いものの、長く生きてきた人間の終章における醜態模様には、変りはない。切り口も展開も新しくない。


 老境にあるぼくなんかには、身につまされますが、同時に、「また、か」、「それで、どうした」と思ってしまいます。こういう「よくある」内容の映画が、大賞というのは、なんだかうなずけないが、超高齢社会での普遍的な人生を、改めて描いてみせたということか。強いていえば、全編、光と影の濃いモノクロの映像と、長岡京三の一人芝居が巧みかな。


 人生の晩年、アタマも正常、足腰も達者。快眠,快食、快便というわけにはいかない。栄養がよくなり、医療・衛生、福祉の水準も高まると、寿命は伸びますが、伸びた分だけ、認知症や痴呆になりやすい。


 症状が進行するや、社会や家族から忌避されて、お荷物、邪魔者扱いされ、蔑まれるようになります。食事、排泄、着脱、入浴、全てで人の手が必要になります。


 本人の人格崩壊は、さまざまで、なかには動物同然になる人も。大便を食したり、汚れ物を戸棚に隠したり、パンツをアタマから被ったり、家族を泥棒呼ばわりしたり、狂乱の果て、見るも無惨に変容し、人間性のかけらも無くなるケースもあります。各人はそれぞれの場で、ちゃんと社会人として世の中の発展に尽くしてきたのに、このむごたらしいありさま。


 こうした晩年を『第二の性』知られるフランスの著名な女性作家、シモーヌ・ド・ヴォボアールは「文明のスキャンダル」といい切っています。だれしも逆らえぬ老年を人間らしく、尊厳を持って生きる事ができないのは、高度に発達した文明社会にあって不祥事だというわけです。


 まさに、どうする、どうするかの重大課題ですが、誰しも避けられない問題ですが、日本では、最終的な解決の仕方が、法的にも整備されていない。病院や施設、家族の介護、看護の次元でとどまっています。


 ぼくなんかよりも、あとに続く大勢の「団塊の世代」の人たちの晩年には、多数の患者を抱えて、待ったなしの問題になりそう。老年の過ごし方が施設や医療関係者のビジネスチャンスくらいにしか認識されていない現状では、問題はたいへん深刻です。


 国民に温かい目を向ける本当の政治なら、こうした国民の晩年の平穏で安心な過ごし方について「こども家庭庁」どころか「高齢者家庭庁」といった政策がいると考えます。


 従来から自民党政権は、「家族の絆」というキーワードで、介護を配偶者、嫁、娘らにおしつけようとしています。「家族の絆」」というのは、空疎な美辞麗句。実情は、家族の手にあまります。真の狙いは安くあがるからにすぎません。


 戦闘機や砲弾を作る軍備費を増やせば増やすほど、社会保障費は圧縮されます。ですから、残念ながらタコイ政権では望むべきもありません。軍事力で国民の命や安全は守られません。


       

          (FACEbookから引用)


 晩年の映画の話のつもりでしたけれど、「女のおっさん」ことタコイチが、その面目躍如ぶりが露見しましたので、寄り道します。


 タコイチは自民党全議員315人に「御祝、タコイチ」として額面3万9900円相当のギフトリストブック(合計約1千70万円)を贈っていました。「女のおっさん」は、ふだんから奈良産の靴下、しょうゆとか特産物をせっせと、議員に送りつけているという記事もありました。古くさい,セコい、ずる賢い「男のおばはん」やな。 

 

 1千万円を超える金額です。「社交辞令」でも、ねぎらいでもありません。24年に2億5千万円もの寄付献金を集めたタコイチ。「政治とカネ」の懸案はどこ吹く風。だが、これは議員連中を懐柔する公然たる買収行為ですね。倫理的には、あってはならない話。さっそく公選法199条5条1項違反(後援団体に対する寄付等の禁止)として東京地検に告発されています。もっとも近頃の検察庁は、法と正義の執行まえに権力者の顔色をうかがいますので、事件化は望めないか。


 さらに国会答弁の異様さに驚かされます。対米投資80兆円を巡る通商問題を問われると、タコイチは「赤沢経産大臣の仕事です」と話しを振ったうえ「私に恥をかかせないように言ってあります」と答弁。「恥をかかすな」とは、まさに暴力団の親分が子分に命じる言い分。なんという思い上がり、傲慢な態度。いまどきの「おっさん」でも口にしない言葉。タコイチの品性下劣が日を追って明るみにでます。


  そのうえ、WBC対韓国戦では、始球式に出るとの噂があります。スポ-ツ紙が伝えています。関節リューマチがイタイ、イタイとしてNHK日曜討論を敵前逃亡したのは、何だったのか。


 病気を真に受けて心配する、マトモな人たちの同情や思いやりさえ、票集めにした神経ですから、今後も関節リュウーマチを都合よく使いわけるのかな。まあ、図太い神経の持ち主ですわ。我が晩年を、こんな首相の下で暮らすとは、なんという不幸かなと思いますね。


 さて、話がそれました。人生の終え方としては、諸外国では、法律で医師等によって命を絶つ安楽死というの終わり方が認められています。オランダが一番の先進国。もちろん厳格な条件をクリアしたあとのことですが、医師が薬剤投与などの方法で、自殺行為を幇助することが、認められています。スイス、ニュージイランド、ベルギー、スペイン、カナダやアメリカの一部の州でも可能らしい。フランス映画『母の身終い』ではスイスでの安楽死の模様を細かく描写していました。


 安楽死にしろ、尊厳死にしろ、人生の晩年を意識がはっきりしているうちに、文書にするか、家族に意思を明確にしておくことが前提だと思います。


 ぼくは安楽死制度がないので、せめて無用な延命治療は必要ない(尊厳死)と連れ合いに言ってあります。もちろん、戒名も葬儀も無用です。斎場への直葬(じきそう、とも読みます)で十分です。死ねば、すべてオシマイです。それが、ぼくなりの死生観です。


  (以下、四枚は。FACEBOOKから引用しました)


   


     

     


     




汚染水(政府用語、処理水)、放射線除去したのなら、なんで海に流すの?

汚染土(政府用語、復興再生土)、汚染除去したのなら、なんで全国にばらまくの?