退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

お正月のこと

 老夫婦二人くらしで迎える正月は、平凡な毎日とほとんど変わりがありません。ただ、暮れに長い時間をかけて、黒豆が煮える匂いが部屋に立ち込めると、おせち料理の準備が進んでいることを知ります。


 娘二人ガ相次いで結婚し、別居してから、まもなく30年になりますから、「お二人さま暮らしのベテラン」になっています。70代前半までは大みそかに早寝して、元日に未明から近郊の山に登り、初日の出を拝んでから帰宅途中のスーパー銭湯で初風呂を楽しみます。


 山に登れなくなってからは、近くの古墳公園の高みから、登っていた山の峠あたりから昇る朝日を眺めに行きます。余談ですが、もう長いこと、紅白歌合戦は見ていません。除夜の鐘の音を聴くこともありません。格闘技の中継があれば、そちらを見る方が楽しみですね。


 一休さんの説だという道歌があります。
「門松(正月、元日)は冥途の旅の一里塚 めでたくもあり、めでたくもなし」
昔は、数えでトシを取っていたので、「正月はおめでたいが、一方では、あの世への道しるべを一つ通るようなものだ」と。まあ、とんちの一休さんは、けっこう斜に構えている坊さんです。


 娘たちがいたころの「おせち」は、それなりに焼き物、煮物いろいろ取り揃え、彩りよいお重を連れ合いが丹精こめました。二人暮らしになると、酒のサカナになるような口取りばかり。数の子、黒豆、田作り(ごまめ)、かまぼこ、それに卵焼きくらいか。


 今度のお正月は、ちょっと様変わり。高2の孫息子が婿殿と元朝にやってきます。ですから、ローストビーフやカニも用意すると連れ合いは張り切っていますが、本当は孫息子に新年らしく、お雑煮を食べさせてあげることです。


 ここ3年間、お雑煮を作ってくれていた婿殿側のおばあちゃん(亡くなった次女の義母)が秋に旅立ちましたので、うちで一緒に食べることになったのです。


 重ね重ね不運な孫息子です。父子二人暮らしの不憫な孫息子にあえるので、連れ合いともども喜んでいます。この孫が大学に進み、その後、社会人になるまで見届けたい、、、というのが、ぼくたちの切ない願いです。そのため、連れ合いは、「あと十年生きる」と言っていますが、、、。


 次女の面影を残す孫息子をみれば、一人足りない寂しさを感じることでしょう。長生きすると、生老病死の悲哀からのがれるわけにゆきません。一休さんのいう「めでたくもあり、めでたくもなし」が、実感を伴いますね。

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