退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

テレサ・テン

 見たいTV番組がないかと、チャンネルを変えていたら、『テレサ・テン  没後25年目の真実』(BSーTBS 再放送)が始まるところでした。


 あの可愛いらしい、まあ―るい顔、どこまでも遠く届く、高く澄んだシルキー(絹のような)豊かな声量。テレサ・テンの世界を楽しめました。美空ひばりが日本の歌姫なら、テレサ・テンはアジアの歌姫として揺るぎない人気を今も保ち続けています。この偉大な歌手は、その数奇な運命も興味深いです。


 かつて台湾を縦断するバス旅行をしたとき、バスの運転手がテレサ・テンのファンらしく、大音響で彼女の歌のCDをかけ続けていました。テレサ・テンは台湾では初代総統、蒋介石と並ぶ国民的英雄です。


 タイのチェンマイを訪れたとき、あれがテレサ・テンが亡くなったというホテルをわざわざ見に行きました。白壁が映えるインタナショナル・メイビン・ホテルでした。恋人のフランス人が外出したあと、持病の喘息から心不全になり、誰にも看取られず、42才の若さで亡くなりました。(1995年)。


 恋人がフランス人というのは、父母の祖国、中華人民共和国が一党独裁で、民主化を求める労働者、学生たちを虐殺した天安門事件(1989年)に失望して、それまでの住まいだった香港からフランスへ移住してからの付き合いだったのでしょう。彼女は二種類の中国語、英語、日本語、フランス語を喋れるという天才です。


 テレサの父は蒋介石率いる国民党軍の軍人です。中国大陸で国共内戦の結果、毛沢東の共産軍に敗れて逃げた台湾で蒋介石が樹立した中華民国(台湾)でテレサ・テンは生まれています。父の願いは大陸の故郷に戻ることであり、テレサ・テンにとっては、父母の望郷の地で自由に歌えることでした。


 アメリカが、自己都合で大陸中国を正当な中国とみなし、国際社会が同調したため、台湾は孤立していました(1978年)。日本も今も表向きは台湾とは国交未回復です。先の五輪で「チャイニーズ・タイペイ」と名乗るのは、「中国の一部地域」だとして国家扱いされていないからです。


 その国交がない地域から日本に来るには厳しく複雑な手続きが必要でしたので、何度目かの来日の際、テレサ・テンはインドネシアの旅券で入国、これが発覚して国外退去になり、せっかく出始めた人気がくじけます。その間、テレサ・テンはアメリカやシンガポールはじめ東南アジアで着々と名声を重ねていきます。


 台湾では、テレサ・テンの人気を広告塔のように利用、国府軍の訓練にテレサ・テンを参加させたり、戦意高揚のため大陸反抗へのデモンストレーションに使われました。大陸に最も近い金門島から大音響でテレサ・テンの呼びかけが昼夜、放送されていたのは、有名な逸話です。


 テレサ・テンのの歌を反国家的敵性の歌だとして、カセットやCDの所持、販売を禁止していた大陸中国でも、歌声はじわじわと流行し、ついには爆発的な人気を得るようになり、
中国人民の心を制覇しました。


 テレサ・テンは念願の大陸でのコンサートは叶いませんでしたが、「昼間は鄧小平(当時中国の最高指導者)の言うことを聞き、夜は鄧麗君(テレサ・テンの中国名)の言うことを聴く」と言われるまで絶大な人気を博しました。


 再度、来日したテレサ・テンは、『つぐない』、『愛人』、『時の流れに身を任せ』など次々とヒットを飛ばし、レコード大賞,有線放送大賞、紅白歌合戦出場と歌手の階段を頂点まで駆け上がりました。天性の美声の持ち主は、祖国の分断、国際社会の葛藤対立という時代の大きな渦に巻き込まれ、翻弄されながら、日本でも大成しました。


 テレサ・テンが亡くなったとき、所持していてパスポートは中南米にあるベリーズという国のものでした。ベリーズって、どこ? テレサ・テンの軌跡は、不可思議ですね。スケールの大きいこんな歌手が再び現れるかどうか。


 ぼくは『時の流れに身を任せ』もいいけれど、テレサ・テンの心情を想うと、『何日君再来』(ホーリージュンザイライ いつまた、君とあえる)がしみじとして胸にこたえますね。


 ♬ 忘れられない あの面影よ
   ともしび揺れる この霧の中
   

【怀念邓丽君】何日君再来 1985 NHK演唱会

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