退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

何で反対しなかった?

 「あの戦争,なんで、大人たちは、みんな反対しなかったのかな」


 あの戦争とは、大日本帝国側の正式名称で言う「大東亜戦争」のことです。敗戦後、米軍の言う「太平洋戦争」と呼び名が変わりました。この戦争は、その前の日中戦争から連続していますので、「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ研究者もいます。


 その戦争について、少年のころ、何で,あんな馬鹿げた戦争に反対せえへんかったのか。そう思ったものです。いまでも、そう思う人がいて、投稿欄なんかで、同じ疑問を投げかけているのを見ることがあります。


 当時の先生や大人たちは、当事者の世代ですから、尋ねられると、イヤな顔をしました。「そんなことを言えた時代じゃないんだ」。たいていは、時代のせい、にします。今また、タモリの言い方によると、「新しい戦前」の時代になっています。こんどこそは、反対できない社会を作ってはなりません。


 アへ、スカタン、キシダメ三代で急速に「大東亜戦争」のまえみたいに「戦争準備」が進んでいます。今度は,おそらく誰しも考えますように米軍との同盟軍です。米軍の走り使いです。こんなことで、戦死者が出ることは許されません。そこで、自戒をこめて、改めて、「その時代のせい」をざっと調べてみました。


 一言でいえば、戦前の臣民(国民)は、政府・軍部にがんじがらめに縛られて、モノをいう自由が奪われていたのです。お上や軍部を批判するなんて、モノを言えば、逮捕、拘束され、殴る蹴る、場合によっては殺されたりしたのですから、臣民は政府のヤルこと、ナスことに「見ざる、聞かざる、言わざる」に徹して暮らしたのが実情です。また、一方で戦争を賛美、当然の国策と同調した臣民が多くいたことも事実です。少し長く、固い表現もあり、恐縮ですが、読んでいただけると、幸いです。


 徳川幕府の下、お飾りにすぎなかった天皇制。これを復古し、「富国強兵」を国是にした明治政府は、まず、欧米列強に並ぶために、最初にやったことは、徴兵制度 (国民皆兵主義、1873年=明治6年)の実施です。その後、臣民に対して明治天皇は「教育勅語」(1890年=明治23年)を下します。臣民の命と暮らしは、すべて事ある時は、天皇を守る(国体護持といいました)ために命を捧げることを至上命令だとします。学校教育の基本ともなります。


 そのことが臣民の日常で徹底されているかどうか、不穏な言動をする臣民がいないかを探索する特別高等警察(略称、特高 1911年=明治44年)を警察制度とは別建てで張り巡らします。ところが、お隣のロシアで革命(1917ー23年=大正6-12年)が起こり、ロマノフ王朝が転覆、共産主義国家ソ連の誕生します。


 明治政府は、天皇制に類が及ぶのを恐れて、悪名高い「治安維持法」(1925年-大正14年)を作ります。「天皇制と資本主義批判する結社や言論」は絶対許さない、違反すれば最高刑が死刑という法律を制定しました。この法律はすぐに拡大解釈されて、政府にとって気に入らないことなら何にでも検挙、摘発に乱用されて行きます。


 政府批判は一切認めず、その言動を行うものを検挙します。絵画会とか読書グループといった人の集まりには尾行、監視、ときには暴力的に弾圧します。これで臣民は自由にモノを言うことが完全封殺されます。その後、モノを言った学者たちは大学を追放され、作家は拷問死、哲学者は獄死に追い込まれていきます。批判記事を書いた新聞記者は報復されて、最激戦地に送られました。


 一般人も常に警察、特高に監視されて、職を失い、あるいは、アカ(共産主義者、あるいは同調者への蔑称)だと職場、近所で吹聴されて白眼視、社会的に抹殺されます。政府批判を口にできない社会になりました。現状の北朝鮮と同じ状態の「情報閉鎖社会」になります。富国強兵策は具体的には、近隣の諸国の領土、資源を分捕る帝国主義化します。


 日清戦争(1894年=明治27年)台湾、遼東半島を分捕ります
 日露戦争(1904年=明治37年)南樺太と中国大連、旅順を租借権、東北部の鉄道沿線                 地帯を獲得、朝鮮半島の権益獲得


 韓国併合(1910年=明治43年)日清日露戦争への戦略・後方支援基地から植民地に。
 第一次世界大戦(1914-1918年=大正3-7年)中国山東省とマリアナ諸島、トンガなど南洋諸島を獲得


 日中戦争(1937-1945年=昭和12-20年中国奥地まで進軍するものの、応戦されて泥沼化が8年間続きました。
 大東亜戦争(1941-1945年) ハワイとマレー半島と香港を同時奇襲、米英蘭(オランダ)と開戦。


 富国強兵制度の行きつくところ、「狭い領土、少ない資源、多い人口」問題を解決するため称して他国を侵略、分捕る軍事大国化となりました。その結果、「勝った、勝った,また勝った」と上に列記した戦争の節目ごとの戦勝に臣民は、提灯行列、日の丸行列で有頂天に歓喜、陸海軍の軍部は、天皇の統帥権を無視することもあるほど急速に傲慢、独断専行していきました。大多数の臣民は、戦勝の報告ごとにも本気で狂奔しました。紛れもない事実です。


 昭和7年 政府は中国東北部に日本が自在に操れる傀儡(かいらい・操り人形のこと)国家「満州国」(1937年=昭和7年)を設立。国内では、海軍大将が首相になり「挙国一致内閣」(同年)を結成しました。この年から天皇中心の軍事国家体制が総仕上げ段階になります。


 日中戦争の勃発とともに、国民精神総動員法を制定します。「挙国一致」、「尽忠報国」と言うスローガンの下で臣民の暮らしは男性の丸刈り、国民服、女性のパーマ禁止、モンペ姿、弁当は梅干し一つという「日の丸弁当」といったように細部にまで統制されます。「大和魂」で(当時進行中の日中戦争)遂行のために全勢力を注ぎ込むことが要求されます。


 そのうえ、近い将来の日米戦争を見据えて、政府は大政翼賛会(1940年=昭和16年)をまとめます。大政とは天皇の政治、翼賛とは天皇に一身を捧げ助ける、という意味です。政治経済、文化科学、あらゆる分野の組織、団体が言論、思想、生活はすべて一本化されてしまいます。国会は与党も野党もなく、審議は不要です。これは、いま、自公維が改憲で狙う「緊急事態条項」と同じです。野球まで「野球報国会」がつくられました。


   さらに臣民たちを一丸となって戦争に協力させるために町内会、隣組制度(1940年ー昭和16年)をつくります。だいたい10軒ごとに班を結成し、班長が集会を開いたり、回覧板を回したりして行事、配給、清掃 防犯活動、軍事訓練などを仕切りました。


 真の狙いは、反政府、反軍的な言動やスパイ行為,怠業などを相互監視させ、密告を奨励しました。こういう仕組みをカサに威張るオッサンや口うるさいオバサンが隣組に輩出したのも事実です。注意すべきことは、進んで戦争協力したことです。


 「挙国一致内閣」とは、上意下達の独裁と同義です。陸軍大将、東条英機が首相におさまる(1940年=昭和16年)まで、ほぼ軍人が政権を掌握した状態になり、東条英機は同年12月8日、天皇の開戦の詔勅を得て、米英と開戦しました。海軍・陸軍大臣は、現職の将官がなる制度がありました。東條英機は首相、陸軍大臣、参謀長を兼任しました。選挙には、陸軍から資金が出て、戦争推進派議員が当選しました。


 一休みです。ここまでの文章を「見える化」して見ました。いずれもGoogle画像検索から引用しました。


国民学校(小学校)の国定教科書、軍国主義で染められいます




 女性も子供も、みんな銃後の守り、戦時体制に組み込まれました。


              

「欲しがりません、勝つまでは」と弁当箱に書かれています。



 臣民の服装まで、統制されました。モンペ姿は消火活動に最適という理由です


大政翼賛会の発足です。



 余談ですが、開戦時の閣僚の一人が、アへ・シンゾウの母方の祖父、岸信介でした。敗戦後、岸はA級戦犯になりましたが、アメリカの公文書に基づいた記録によれば、CIA(アメリカ中央情報局)のスパイ(工作員)になる代わりに死刑を免れて釈放され、CIAの資金提供を受けて、現行の自民党結成につくし、のち首相にまで上り詰めました。そんな人物を思慕してやまなかったのが、孫のアへであります。キシとアへは日本を米国の属国にさせた元凶だと思っています。


 アへの父方の祖父、安倍寛は、無所属の議員候補で、憲兵(軍隊内の警察兵)、特高に選挙演説を中断されながら、しかも陸軍の選挙資金をもらわなかったにもかかわらず、当選した数少ない誠実な反骨反戦の士でした。戦後まもなく惜しくも病死しました。この息子が外務大臣まで勤め、あと一歩で首相になるはずだった安倍晋太郎です。その次男が、アへ・シンゾウ。ご承知のようにシンゾウは、母方の祖父、岸信介を敬愛し、米国追随のウルトラ右翼、国家主義者になりました。日本国民にとって、まことに不幸な路線を選択した愚かな人物です。安倍寛のことをシンゾウは、のちにも一言も触れていません。


 さて、国民の口をふさぎ、戦争国家にまい進した戦前です。主だった法律のほかに各省庁が国策にそった告示、訓令、規則など、事細かく統制しました。これに対して、モノをいうべき立場の、いわゆる言論機関は、どうしていたのか。ご承知のように戦前はテレビも民放もなく、あるのはNHKのラジオ放送(1925年=大正14年放送開始)と新聞、雑誌だけでした。


 歴代政府は、言論の自由について「法律の範囲内で」表向きは認めつつ、あらゆる方法で制約をかけました。いくらでも「法律」を作って、自由な言論を制限したのです。裏返していいますと、自由な言論の影響力を恐れたのです。


 「治安維持法」のほか「出版法」(1893年=明治26年)、「新聞紙法」(1909年=明治42年)は、ともに政府の外交や国防策についての規制でスタートしましたが、「不穏文書臨時取締法」(1936年=昭和11年)では、すべての出版物、印刷物の責任者を明記し、言論検閲を強化しました。同じ年「言論、出版、集会、結社臨時取締法」を上書きする形で制定。そのあと前述の大政翼賛会があって、戦時下には自由な物言いは一を切封じ込められました。権力は、「従わないものは、生きる権利を奪う」ものだということを物語っています。


 新聞雑誌も事前検閲で、批判記事は載せられないが、連戦連勝と伝えられる戦争記事は、販売部数を増やしました。皇軍(天皇の軍隊)の戦勝記事は、針小棒大、誇張され、粉飾されて、読者を増やしました。ざっくり言いますと、新聞雑誌は、自由の首を絞められながら、戦争で儲かったのです。言論が屈服しました。NHKのラジオは事実上、軍部に乗っ取られたような形で、戦後、虚偽の代名詞となった、いわゆる「大本営発表」でもって、臣民をミスリードし続けたのです。


  子どもも女性の雑誌も必勝祈願と戦勝の記事ばかり


 長々と書きました。ここまで、お読みになり感謝します。


 要する、いったん戦争がはじまると、津波のように抗うことができなくなります。権力は容易に国民の目、耳、口をふさぎます。いままだ戦前のような言動の自由が封殺されていないときこそ戦争反対の声をあげる必要があります。


 特に選挙の投票の際には、戦争やむなし、敵基地反撃能力、核共有、近隣国へ敵意を煽るような政党、つまり、自公維の勢力を議会で多数にしない選択をすることです。平和こそ、何物にも代えがたい宝です。


 アへは戦後最悪のマスコミ圧力者でもありました。その子分、タカイチ・サナエの「気に入らない番組を流せば電波停止しますよ」」という趣旨の発言しました。確実に言論の自由への弾圧です。こうした流れを止めないと、いつか来た道を再び歩むことになります。


 ちなみに侵略されたウクライナでは、テレビなどマスコミは政府に一本化されており、ロシア=悪、ウクライナ=善の官製報道で、国民の戦闘意欲を煽っています。体面やメンツを捨てて、停戦,休戦など平和を目指す道を閉ざしています。むろん、ロシアもしかりです。死ぬのは、いつも国民です。


(写真類はすべてGoogle画像検索から引用しました)

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