退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

ポックリ寺

 あの世からお迎えが来たら、苦しまず、痛まず、長患いをして周りに迷惑を掛けずに、”ポックリ”と逝きたい。そう考えるのが、人の業です。ぼくたち後期高齢夫婦にとっても、それは切実な願望です。


         
 梅がほころび始めた奈良県・斑鳩の里。あの法隆寺と万葉集にも詠われる龍田川との中間あたりにある「ポックリ往生の寺」を訪れました。正確には、「清水山顕光院吉田寺(きちでんじ)」といいます。国道筋ぞいの住宅地の奥にあります。ぼくは、根っから信心は薄い方なんですが、好奇心の方はおおいにあります。で、「どんなところかなあ」という感じでの訪問です。


 長野県の医療関係者がが言い出したという「ピンピンコロり」、評論家、樋口恵子さんがいう「ピンピンヒラリ」も”大往生のポックリ”思想に通じています。「コロリ」よりも、ハードルを「ヒラリ」と越える感じの方が、より自分の意思が伝わるというのが、樋口恵子さんの感性のようです。ぼくは、どちらでもいいのですが、(笑い)。要は、亡くなり方についてのきわめて現実的な美学です。


 ポックリ寺は、念仏道場です。縁起によると、10世紀のころ、僧、恵心僧都(えしんそうず)が開基したとされています。恵心僧都は親孝行で、母の臨終の際、邪魔の祈願をすると、苦しみなく安らかに往生されたという。その後、寺宝、丈六阿弥陀如来の前で御祈祷を受けると、腰、シモ、スソの世話にならずに「天寿」を全うできるという、ありがたい霊験が得られる。これがポックリ往生の由来とあります。


 シーズンには、ポックリシーズンというわけでなく、この場合は春秋のいいお日がらのことですが、観光バスで、たくさんのお年寄りの団体がお参りにくるらしい。駐車場の看板には、ご自分の肌着を持参して、御祈祷してもらううと、シモの心配もなくなると案内しています。ポックリといい、シモの退散といい、きわめて現世的なご利益があるようです。



 竹林を脇目に境内に入ると、正面の本殿、右側に多宝塔、鐘楼がある、意外にも簡素な境内。先に参っておられた老夫婦に続いて、本堂にあがりますと、背の高い(丈六)の阿弥陀如来像が鎮座、その前にたくさんの木魚が並んでいます。僧侶の読経に合わせて参拝者も木魚を叩き、邪気を払うようです。ぼくは御朱印だけいただき、後にしました。竹林のなかを春の小鳥が群れて飛んでいました。


 連れ合いの誕生日祝いもあって、ホテル泊まり。温泉に入浴のあとの夕飯に和牛を具材にした豆乳鍋がありました。これが、とても美味しかった。牛肉も美味しかったが、スープも旨みと香りがよくて、よかった。美味しいものを美味しく食べられて、ポックリ。これがいちばんのハッピーエンドではないかな。



          気をつけよう、汚染水と自公維国!!

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