退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

敬老祝いで思うこと

 住んでる自治体から、敬老祝いを上げるから、次のどれかを選んで、返事してほしいと封書が来ました。600円の買い物券、せんべい、菓子、鯨缶詰など地元産の5品目の一つに〇をつけます。品物の方は600円相当分です。


 長く住んでいますが、内陸部のどこに鯨缶詰を作る工場があるのか、知らない。世間は広いなあ。


 まあ、それはいいとして、祝い金品の対象者は、80才以上の全員。600円なんて、いまどき子どもも喜んでもらえない金額です。祝い金をやめたいけど、しぶしぶ出している感じ。この程度なら、やめればいいと思うのだが、そうもいかない事情があるのか。


 市内には80才以上はおよそ1万4千人いるようだから、いろいろ経費を含めば、これで1千万円事業になります。地場産の需要喚起に期待していることもあるだろうな。年寄りに何の挨拶もないのか、と口うるさい住民の声もあるかもしれない。


  ネットで調べると、77才(喜寿)とか88才(米寿)さらに100才(百寿)というような節目の年齢の人だけを祝い対象者にしている自治体が目立つ。


 自治体によってまちまちだが、77才5千円ー1万円、88才1万円ー2万円、100才5万円ー10万円といったところか。ぼくは77才の時、この金額をもらった覚えがないから、住んでいる自治体は、もともと低い方なのか、ケチなのか。


 自治体のなかには無料の乗車券や入浴券、文化施設の入場券を配っている自治体もあります。しかし、高齢者がどんどん増えるし、財政の懐具合は厳しい、という事情で祝い金を半額にしたり、全廃している自治体も少なくない。


 だいたいトシを重ねたから、おめでたいという発想は、昭和までの話、もはや時代錯誤です。つまり、長命者がトキやコウノトリのように希少種のような存在であった頃の名残りなんだろう。


 こんなに長命者が増えたのは、間違いなく公的環境がよくなった功績です。豊かな食生活、医療水準の向上、社会の衛生意識の向上が要因になっているわけですから、長命者は改善された公的環境が生み出した文明化現象であろうと思います。


 一方で「下流老人」」と呼ばれる低所得者層も激増しています。厚生・国民年金、生活保護費では、もうカバーしきれないで貧窮者たちです。


 働いても働いても、貧しいのも、病気になるのも、職を失うのも、居場所がなくなるのも、自己責任と主張する人が多くいます。そのような発言をする人は、今の社会で立ち位置が、たまたま恵まれた人たちです。


 高齢化が進むこの国では、60才以上が人口構成のなかで、すでに33・4%も占めています。恐ろしい勢いで老人大国になりつつあります。ぼくを含めて大勢の高齢者たちの命と暮らしをどう守るか。人間らしく暮らせるか。そこが肝心。敬老の日の祝いなんて情緒的なものはいらない。


 これからも増え続ける長命者たちが安穏に余生をまっとうできるように「公助」はどうすべきか、社会保障や福祉のありようをきちんと設計することが急務です。


「下流老人」と全国3000強もある「こども食堂」に群がる朝・夕飯が食べられない学童たち。少子高齢化は、足元と頭がグラグラしている不平等な格差社会です。


 まず「自助」と責任を押し付けるのは、既得権益者によるお説教です。「公助、共助、自助」の順に政府が納税者である国民に選ぶ道です。体育系の成功者によくあるタイプは、自分の苦労と精神論を他人に強要しがちで、結局、嫌われますね。

×

非ログインユーザーとして返信する