退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

タナカ ノゾミ

 このトシになって、心躍る若い女性が出現しました。


 知る人ぞ知る中長距離ランナー、田中希美さん(豊田織機TC・同志社大3年)、20才です。
 
 今夏、3000メートルで,なんとなんと18年ぶりの日本新記録を塗り替えた。
 1500メートルで、なんと14年ぶりの日本新記録をマークした。


 3日まで新潟で開催した日本陸上選手権では、1500メトールで優勝。挑戦した800メートルは予選最高タイムで通過しました。決勝では果敢に先頭を切りましたものの、ダブル出場の疲れか、力尽きました。いずれ、この種目で日本新記録を更新するでしょう。いまいちばん光っている女子陸上界のキラキラ星です。


 ぼくは直接かかわったスポーツは、中学のころの陸上競技と中年からの登山だけ。あとの競技は、ぜんぶ見るだけ。見るだけですが、陸上競技には今も関心を持っています。


 中学三年間、400メートル走の練習に明け暮れました。個人競技が好きなのです。部活担任は名目だけで、これといって指導者がいるわけではないので、往年の三段跳び金メダリスト,織田幹雄や長距離走の神様、村社講平の走り方を本で読んだり。


 これら偉大な日本の先達たちは、もっぱらスパルタ練習法ばかりでした。それにならって校庭の隅に水を汲んだバケツを置いておき、へばったらアタマから浴びて、また走ってました。なんともバカげたことをしていたものです。


 なんといっても影響を受けたのは、ヘルシンキ五輪(1952年)でマラソンはじめ長距離三冠に輝いたチェコスロバキア(当時)のエミール・ザドベック選手でした。


 失礼ながら、年配の方なら陸上競技に無関心でも、名前だけはご存じだと思います。”人間機関車”と言われた伝説のランナーなのです。


 今では当たり前のインターバル・トレーニング走法は、彼が広めた練習法です。全力疾走と息を整えながらゆっくり走る、つまり緩急(急走と緩走)を交互に繰り返す練習です。ぼくも一生けん命、マネして校庭を走り回っていました。


 二、三年生の夏休みは一日も休まず登校して、日が暮れるまでひとりで走っていました。しかし、そんなに練習しても春秋の大阪市大会、大阪府大会では予選、準決勝は突破しますが、決勝戦でいつも4位。どうしても3位内の入賞ができませんでした。上位3人とはいつも常連でした。いまでも、その3人の中学校名を悔しくて覚えていますね。


 こうして15才にして得た失意の経験!は、こたえましたね。「どんなに努力しても、天性の才能がなければ、報われることがない」という人生観を体得しました。その後は一切、競技スポ‐ツに手をだしませんでした。


 高校に入っても、たとえば、理数系の教科がわからないのは、才能がないものと決めて、先生が授業で、がんばれ、勉強しろ、と𠮟咤激励するのを、せせら笑う悪癖を身につけましたね。ダメなものはダメ。先生が、ああいうのは、職業的な偽善じゃないか。そう思ってました。


 長く尾を引きました、あの挫折感は。早く走るにしろ、アタマがいい悪いにしろ、大食か少食かにしろ、身体的能力は、持って生まれた素質のなせることで、努力で伸びる余地はちょっぴりしかない。そういう身もふたもない考えを、いまも少なからずもってますね。


 女子陸上界では、とくに長距離走に時々、たいへんな逸材が出ます。高橋尚子、野口みずき、有森裕子の皆さんは、世界をリードしました。来年の東京五輪は中止になると思いますが、田中希美さんは、まだ若い。


 いずれはマラソン界にも登場してくるにちがいありませんね。愉しみです。両親とも一流の競技者だったといいます。受け継いだ天性の才能をさらに伸ばして、大きな大きな花を咲かすのにちがいありません。

2020年8月23日、1500メートルで日本新記録を達成した田中希美選手に花束が贈られる
(日本陸上競技連盟ホームページから引用)

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