退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

五輪は中止へ

 来年の「五輪は中止」を早く決断するとよい。ぼくは、そう考えています。


 理由は二つ。一つは感染拡大が世界的に収まらないコロナ禍。五輪の主役、アスリートたちが万全の準備ができない、交流は感染拡散の場になること。


 いま一つは,スポーツの祭典というより、過剰なスポーツビジネスの場になっている現状を見直す好機とすればいいと思うからです。


 コロナ禍は収まる気配がありません。有効なワクチンが各種開発されたといいますが、各国のアスリートたちはじめ国際社会の多数の人々に有効性と安全性を保障できるか、どうか疑念がわきます。すでにワクチンが適さない変異種も出現しています。


 先日、陸上1万メートルで日本新記録を出した女性選手は「副作用が恐ろしいので接種はしない」と記者会見で明言してました。確かに治験もろくにすっ飛ばして速成開発したワクチン。たとえ、高齢者優先といわれても、ぼくも連れ合いも接種はしたくないと思っています。


 いったい、やる方も見る方も、ワクチン接種やPCR検査をやってまで競技をしたり、見たりすることか。正気の沙汰と思えない。こんなときこそ、「たかが」スポーツと割り切って、命を大切にしなくてはならない。


 ”見えない敵”に対処する決め手がないまま、国民は三密とステイホームを余儀なくされ、一方でアスリートが、飛んだり跳ねたり泳いだりというのは、ブラックユーモアでしかない。


 各種の世論調査によれば、来年の五輪に望む声は「開催」、「再延期」、「中止」の三極化していますが、「再延期と中止」を合わせた「非開催」が7割以上となっています。国民の民意は、五輪どころか、コロナ感染防止に注力せよというわけです。


 にもかかわらず、厄介なことに、自称「ガースー」は、GOTOの期間延長で迷走するどころとか、自らマスク無用で一人前3万円の高級ステーキを多人数会食をするなど失態を繰り返しながらも、感染防止よりも景気浮揚を重視に固執しています。感染防止と経済優先との両立は、二兎を追う愚行。できっこないのです。


 国民の命と暮らしを守るため五輪中止を早く決めて、「ガースー」は乾坤一擲の歴史に残る経済的な”徳政令”を国民に示すべきです。


 と言いつつも、就任前に予期した通り「ガースー」は、発信力もなく、構想力もなく、原稿を棒読みするだけ、とうてい首相の器ではありません。ぼくは二代続く愚かな指導者のガバナンスには見切りをつけています。


 五輪より人命、景気浮揚よりも人命第一が当然です。必ずや世界史に残る、このパンデミックに国策を誤るべきではありません。


 結局は、IOCのバッハ会長による”苦渋”の決断やら各国が選手団派遣を見送るというような”外圧”を受けて、(主催者の面子を保ってもらって)やむなく中止という筋書きになるかもしれません。


 さて、このほど五輪組織委や国は、来年の五輪のために追加予算約3000億円を決めました。これで既存分を含め総予算は1兆6000億円になりました。これは表向きの数字で、実際には、この倍は費消するでしょう。会計検査院は約3兆円と試算しています。


 もともと、今回の五輪はリオでアベが福島第一原発震災を「完全に制御している」と大ウソをつき、しかも開催目的を「フクシマ復興の証」と美化し、あわせて水面下でIOC委員に疑惑の裏金を送って、獲得した開催権です。


 いまでは汚染水の解決策がないままフクシマはそっちのけ、アベ・ガースー・コンビは「人類がコロナに打ち勝った証」と意味不明の五輪目的にすり変えています。


 これほど五輪開催を画策するのは、国際社会へ国家威信を示したいことと莫大な経済的起爆剤になる期待が込められているからで、彼らに”スポーツの祭典”への敬意はきわめて希薄です。


 近代五輪は、ベルリン大会(1936年)でヒトラーが国威高揚の場に悪用し、ロス大会(1984年)で広告代理店経営者のP・ユべロス委員長 が”儲かるスポーツショー”に変容させました。


 それいらい、五輪はメダル争いに代表される「国威宣揚とスポーツ・ビジネス」が二大潮流となっています。気の毒なのは、アスリートたちで、鍛えられた体力や技術は、競技力よりも、ビジネスパートナーとしての値踏みの対象にさらされています。


 IOCの収入源は、たとえば、前回のリオ大秋では73%がテレビ放映権料,13%がスポンサー協賛金です。こうして巨額の金づるになっているアメリカのTV局は、たとえば、ァスリートの便宜よりも放送時間、テレビ映り、CM時間確保のために競技日程やルールまで口出してスポーツショー化の拍車をかけています。


 酷暑の真夏に五輪開催というバカげた日程はじめ早朝や夜遅くに決勝種目が決められたり、柔道着のカラー化や「有効」の技の廃止、バスケの前後半戦がクォター制に変えたり、陸上競技のフライングを一回限りで失格にしたり、とTV都合で変更されています。


  選手には失礼ながら、こどもの遊びのような種目や上海雑技団か木下大サーカスと見間違うような競技が採用されるのも、TV映りを優先してのことです。そのうち、ヨーヨーや指相撲、縄跳びなんかも採用されるかもね。


 いまの五輪は、あまりにも規模が肥大化し、施設準備と運営にカネがかかります。もう開催地の成り手に新味がなくなっています。新国立競技場建設のためボルネオの熱帯雨林一つが伐採されたといわれます。五輪は、地球資源を浪費し、環境を壊しています。一方であまりにも金儲けに振りに回されて、スポーツが毒されています。


 世界的な関心を集めるラグビーやサッカーの方に4年おきにW杯を開いて世界一を決めています。すべての競技種目は、毎年か隔年ごとにに世界選手権大会を開いて、チャンピオンを決めています、競技力の普及や向上には、これで十分です。五輪は「屋上屋」となっています。


 カネまみれの近代五輪は役割を終えました。見直すとすれば、たとえば、真に国際平和と文化芸術の祭典といったかたちに衣替えするなどを考えるべき時期ではないか、と考えます。

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