退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

娘の墓で思うこと

 がんで亡くなった次女が眠る予定の墓地が、没後三年、三回目の抽選で、やっと当たりました。


 次女が住んでいたマンションからも歩いていける川の畔の市営の墓地です。婿殿が三度目の正直と申し込んでいましたが、今回は6倍の競争率をかいくぐって、念願を果たせました。婿殿と忘れ形見の孫息子、そしてぼくたちも、ほっと一安心です。さっそく予定地を見に行ってきました。


 桜がたくさん植えられている広く、きれいな公園墓地。春になれば、サクラが満開のなかで墓参りができそうです。住んでいたマンションの屋上階が遠くに見えるのも、なんだかうれしい。


 婿殿の話では、墓地を求める人が案外多く、毎年一 回、墓じまいなどで供養をしなくなる墓地を更地にした分だけ公募するので、数少ない。その更地は、結構広くて石壇から整える必要があり、これには費用がかかりそうです。


 墓地内を歩くと、やはり石壇の上に長方形の石柱で、「〇〇家の墓」、「△△家代代之墓」スタイルがほとんどです。比較的新しい墓では,球型や半円型、あるいは現代美術のオブジェのような墓もあります。刻まれた文字も「絆」、「昴」、「いつもありがとう」、判読不明の漢詩?と言ったものもあります。亡くなられた方の名前は、わきの霊標に刻まれています。「家制度」を表示しない形式です。


 ところで、ぼくは「選択的夫婦別姓」に賛成なので、これが法制化、もしくは一般化されると、完全に「〇〇家之墓」形式は成り立たなくなりと思います。調べてみますと、この形式の墓が使われるようになったのは、たかだか百年ちょっと。「一家一氏」制度を決めた明治31年(1998年)の民法制定いらいらしい。


 明治以前には皇族公家、武家はじめ一部を除いて庶民には苗字がありません。明治政府が徴兵制度を実施する前段で、兵籍を確立する必要上、明治3年(1870年)、苗字を各自につけさせた事情が背景にあります。


 だいたい戦前回顧主義者のアへやタカイチら日本会議の極右の連中がいう「日本古来の伝統」というのは、明治維新に復古した天皇制はじめ底が浅いものが多い。「伝統」というのは、言い出す方に都合がいい事実があるから、強調されると思って間違いない。


 ちなみに現行の「夫婦同姓」制度は、家父長制の「家制度」を廃止した昭和22年(1947年)の改正民法によります。にもかかわらず、「〇〇家之墓」が多いのは、いったん普及すると、いつまでも残滓がこびりつくものです。天皇や武家は、それぞれ「個人の墓」であるのに、庶民だけが一族共同墓であるのは、おそらくお上がコントロールしやすからであろう。


 夫婦別姓になれば、石材に刻む文字は、すくなくとも一方の姓のでは墓守の継続が困難になります。両姓並列の墓とするか、自由な発想の追悼の辞になることでしょう。「絆」や「昴」であれば、夫婦、子ども。親族、姻族と誰もが入れるし、墓守りもだれもができことになります。


 ただ、両姓の墓にしても子が結婚して、さらに別姓を選べば、マッチしなくなります。ですから、究極のかたちは、個人個人の墓で、かつ刻印される文字列は自由、といことになりましょうか。


 キリスト教徒が多いアメリカでは、通夜や日本のような会館での葬儀、事後の法要などなく、土葬する埋葬場所に一家眷属、友人知人があつまり、牧師の説教に耳を傾むけて、おしまい。


 墓石は十字架あるいは、平板盤の墓石に生年と没年、氏名が普通、特段の思いや業績はあれば、刻印するらしい。映画などでは、教会で説教を聴く場合や埋葬場所に集まり、あとは解散、あるいはパーティをしたりする光景が見られます。要する、個人本位のようですね。これが一番スッキリします。


 お墓の問題は、個々人の死生観や価値観によって違いますし、国や地域が異なると、宗教や国民性や文化も違いますので、難しいですね。何といっても、故人の遺志の尊重と残されたものの気持ちを折り合いをつけるのが、難しいですね。


 以前、次女の遺影とお供えを撮った仏壇の写真を次女の友人に送った際、折り返しに「ビールもお供えにしてあげて」という返事があり、「ああ、そうだった、そうだった」。次女たちは、よく飲み会していたのです。


 ぼくは、亡父が残した立派な墓があり、すでに兄もそこで眠っていますので、ぼくもそうなるでしょうけど、本心をいえば、葬儀も墓も不必要という考えを持っています。今を生きただけで十分、没後まで手をわずらわしたくない。

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