退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

電話あれこれ1

 役所から回覧板がきました。65才以上の家庭で「外からの電話を録音できる装置を無料で貸します。取り付は簡単です」という親切なサービス案内です。オレオレ詐欺などの防止用に役立ちます。


 うちは幸い、すでにFAX付き電話に内臓されていましたので、必要ありませんでしたけれど「情報が命」の職業人生に電話は不可欠の道具でした。スマホ全盛のいま、昔を振り返ると、まさに隔世の感があります。


          (昔の黒電話機==Google画像検索から引用)


 学生時代、電話局のバイトで家庭や事務所、商店などの固定電話機につきものの「電話番号帳」の配達・交換をしたことあります。その日の配達地域にトラックに積んだ、あの分厚く重い電話番号帳が山ほど運ばれてきます。自転車の荷台の石炭箱に、電話帳を積み替えて、電話機のある所を訪ねて配達し、古い電話帳を回収する作業です。


 一冊交換すると、5円もらえます。当時は電話機を持つところは、まだ少なく、自転車に乗りながら、電柱と電柱をつなぐ電話線を見上げながら探しますから大変です。なかには、どうしても「いらない」と固辞する人がいましたが、「タダですよ」というと、何んだという表情で受けてとっていました。


 たまに大きめの事務所で、電話機が三台もあると、電話帳も三冊が一度にはけますので、助かりました。一日中、訪問配達を繰り返して、400円くらいなりましたね。うどん代40円、たばこのピースが40円くらいの時代でした。


 およそ60年まえ、大津の支局に初赴任したころは、いわゆる固定式黒電話が数台並んでいました。どの電話が鳴っているのか、すばやく取り上げるには、慣れがいりました。


 市内以外はみんな電話局の交換手に番号を言ってつないでもらいました。長距離電話もまだダイヤル即時ではなく、つながるのに時間がかかり、イライラのタネでした。


 県内各地にいる記者からの原稿は「定時電話制度」でした。電話局と契約し、毎日午後3時、同3時半、4時といった時間が指定されていて、その時間には机で待機しましす。


 たとえば、近江八幡とか、長浜駐在の先輩記者から定時電話で送られてくるのを、支局で待機する、ぼくが筆記します。こんな調子です。


「、、、、運転手のタナカケンゾウは、いいか、タナカのタは、田んぼの田、タナカのナカは二べべンの仲、仲間の仲。真ん中の中と違うぞ、そうや、ケンゾウのケンはゴンベンに兼ねるの謙、そや上杉,謙信の謙や、ゾウは和数字の三、横棒三つや、、、。」「間違うな」


 人名や地名、専門用語などは、こんな調子でしたから時間がかるし、間違うと「訂正もの」。叱られますので緊張して筆記したものです。漢字の説明は本当に難しいものです。


 この原稿に支局デスクが手を入れて、本社連絡部に送るのは、専用電話線が引いてあり、いつでもつながります。専用線送りは、また大きな技術がいります。そろばんの読み上げか、夜店の香具師のように独特のリズムをつけて、歌うように読み上げてゆきます。


 受け手は、とっくに新聞社からは姿を消した「速記者」ですから、相当早く文字の説明をしながら読んでも、ちゃんと書きとってくれました。FAXなんて想像をしなかったなあ。


 取材の現場では、連絡や原稿を送るのは、大変でした。なにしろ公衆電話が現場近くにあるとは限りませんでした。民家にも、たいがい電話がありませんでしたから、大急ぎで走り回って,店屋に飛び込み、電話をお借りしたものです。


 外勤記者は、いつも十円玉をたくさんポケットに入れておくのが務めでした。「すみません、すみません」と言いながら、許可が出る前にに電話番号を回していました、他社の記者も同じことを、どこかで電話探しをしていますので、負けられません。


 あのころは民放テレビは、まだ報道よりも娯楽に注力していて、ニュースは各系列の新聞社からもらっていましたから、記者もいなかった。NHKはいるにはいましたが、ニュースには、あまり熱心ではなかったですね。まだ新聞が力があったころの話です。
                             (この項、続 きます)

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