退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

電話あれこれ2

 およそ60余年まえ、大阪の新聞社の屋上にハト小屋があり、数十羽ほどの伝書鳩を飼っていました。遠方の取材には、二羽を籠に入れて持参し、二通同じ原稿を持たせて放ちます。途中、鷹に襲われることなく、どちらか一羽は無事、任務を果たしていたそうです。いつ繋がるかかわからない当時の長距離電話より、ハトの方が確実だったのです。


 入社したころは、もう実用には使わず、朝夕、本社ビルの上を旋回するハトの群れが都会の風物詩のようになっていましたが、まもなく廃止されました。ハトたちは「技術革新」の犠牲者?だったかもしれません。


 というのは、ぼくたちが入社のとき、記者研修で1週間ほど講習を受けて、無線技士の資格を取らされました。「特殊無線技士 無線電話乙」という資格です。無線機はモトローラ携帯用といって、相当重いやつです。無線通信が軍や警察など限定から民生用にもOKとなったのです。


 米軍の戦争映画で通信兵が持って走りまわっているような武骨なものでした。ぼくは実際には使った記憶がありません。


      (写真はGoogleg画像検索から引用。これは1950年代のものです)


 あれは、「もしもし」と呼びかけて、一方通行で話し、「了解」と受けて、話者が交代するような面倒な無線機でした。この資格はいまでは「第二級陸上特殊無線技士」と名を変えて有効です。地域放送局、警察無線や防災無線の基地局などで使えるそうです。


 さて、電話の話ですが、富山支局に転勤したときは、借家しました。前任者が住んでいたのを、そのまま借りたのですが、電話機がついていません。まだまだ借家に電話機なんかないころでした。新聞社といえども、個人用に電話を借りてくれる余裕はなかったのです。


 調べてみると、昭和44年当時、固定電話機の全国普及率は100人当たり13.6人です(旧電信電話公社調べ)。富山支局時代は、そのちょっと前ですから、もっと少なかったでしょう。


 これでは、急な仕事に間に合いませので、少し離れた雑貨屋さんに電話を借りる約束をしていました。いわゆる「呼び出し電話」です。名刺に「呼」とある電話番号をっもつ人が多かったのです。


 急な呼び出しはいてい夜間ですから、雑貨屋のおばさんが、息せききって、連絡に来てくれるのが、本当に気の毒でした。隣人は、自衛官でしたが、やはり電話機を持っていませんでしたね。何かコトあると、どないすんねん、という感じ。新聞社も国も、まともな連絡電話網が持てない時代でしたね。電話は一般家庭には普及していませんでした。


 その一方で通信の先端技術の発展は、目覚ましく、昭和54年12月には、自動車に車載できる無線が民生用に開放されて、報道関係や政治家、企業幹部の車に、「車載型無線電話」がつくようになました。運転席と助手席の間に据えられました。


   (写真はGoogle画像検索から引用。実際の物でなく、こんな感じのものでした)


 これがデビューしたころ、本社社会部の記者が、大阪市内の出来事を本社に原稿を送った記事では、冒頭に(大阪市〇〇、自動車電話で××記者)という前振りがありました。今なら、ウソでしょ、という仰々しさです。


 本社へ車なら30分もかからない距離からでも、そんなことを前振りしていたのです。当時は、それが目を奪う技術だったようです。まあ、昭和レトロのお笑い種ですね。


 後年、ぼくも社会部へ転勤、初めて運転手つきで取材に出るときは、「無線〇番車です。よろしくお願いします」と内勤記者に連絡するのが、晴れ間がましく感じられましたから,ご愛敬です。いまならタクシーなんかは、必ず常備していますね。しかし、車載型の名の通り、外しては使えなかったのです。


 このような電話を当時は、「移動体通信」と言っていました。それまでは、「動きながら電話することは不可能」でした。これが、歩きながらでも、どこからでも掛かる携帯電話に発展していくのには、そう時間がかりませんでしたが、その間に外勤記者が悩まされたのは、ポットベルの登場でした。
                            (この項、続きます)

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