退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

「ドライブ・マイ・カー」マイ感想

 人生、順風満帆というわけには、まいりません。


 たいていの人は世代,性別、職業などを問わず、何かに失敗することも、挫折することも、失意のどん底に陥ることもあります。そのトラウマ(心の痛手)から立ち直り、自立できる人もあれば、他人の支えや協力でもって、再び立ち上がれる人もいますし、立ち上がれない人もいます。


 こうした奈落から復帰する、挫折からよみがえる物語は、古今東西、文学や映画では、好んで取り上げられているテーマですから、よくある設定であります。ボクシングやミュージシャンの映画は、ほとんどそのタイプですし、文芸作品でも、そうです。あの映画初期の名作『風と共に去りぬ』も、そうでした。


 絶望から抜け出し、正常をとりもどす、あるいは、うまく行って成功する、、、そんな定番の話にも関わらず、小説や映画を読んで観てよかったという物語には、強く訴える普遍的な力があります。ポイントは、這い上がるプロセスです。


 さて、最近評判の映画、浜口竜介監督の『ドライヴ・マイ・カー』をDVDで観ましたが、結論から言ってしまえば、面白くなかった。途中で長い抑揚のないセリフ続きの場面では、持て余した。上映時間、3時間はむやみに長い。どこが批評家がいう「映画文化の新しい扉を開ける傑作」なのか、さっぱりわかりません。


 国内外の映画賞をかっさらい、批評家たちから高い評価を受けている作品です。ぼくの映画を見る感性が、時代遅れなのかな、鈍っているのかな、漫然と観ていて、肝心かなめのところを見落としていたのかな、いろいろ思いますけれど、どこがそんなにいい映画なのかな。そういう感想が捨てきれない。


 ストリーは、いろんな夾雑物がありますが、約めて言えば単純です。不倫妻に急死された舞台演出家。なぜか情事の現場を見ても怒らず、そっと身を隠す人物です。国際演劇祭が行われる広島に演出のために赴きます。滞在中の彼の「マイカー」の送り迎えに主催者側が若い女性運転手を用意します。


 後にわかるのですが、この女性運転手も郷里の北海道で雪崩で崩壊した家屋から母親を「救出できなかった」痛手を内に抱えています。自堕落な母親に虐待されていたので、本心は「救出しなかった」のか、本人も悩んでいます。この二人のトラウマからの再生劇です。


 結末は、韓国のスーパーで買い物する、この女性が彼のマイカーを運転して走り去ります。なぜ韓国にいるのか、表情が明るいのはなぜか、二人は結婚したのか、映画祭の主催者側の世話人が飼っていたとおぼしき犬が後部座席にいるのは、なぜなのか。観る者の想像に任されます。


 それは、それでもいいのですが、二人が再生してゆくプロセスが、よくわからない。ストリーに起伏がないので、わかりずらい。映画なんだから、映像で見せてくれないと困ります。彼が演出する舞台劇、チエ―ホフの『ワニャー叔父さん』のセリフと、二人のセリフが一つになるようなセリフ重視の演出のようですが、それなら、あえて映像にせずに文字だけでもいいわけです。


(写真はGoogle画像検索から引用しました)


 ただ、新人、三浦透子は、いつも野球帽をかぶり、ぶっきらぼうにタバコを吸う、無口な女性運転手役を演じて、見事な存在感がありました。いい女優ですね。それと瀬戸内の海岸線を走る赤いマイカー(サーブ900ターボ)の空撮が、美しい。この車、なにかストリーの隠喩なのかもしれませんが、よくわかりませんでした。


 蛇足ながら、映画の題名は、村上春樹の同名の短編小説(文藝春秋 2013年12月号)からとられております。そして村上春樹は、ビートルズの同名の楽曲(1965年リリース)から採っているようです。


「♬ ベイビー、有名になったら、運転手にして上げるよ ♬ ブッブー」なんていう歌詞の曲です。ウィキぺデイアによると、{drive my  car}というフレーズには、ズバリ、性行為の意味する隠語でもあるとあります。


 ビートルズと村上春樹。二大看板がズシリ。批評家たちには重いんだろうな。それにセックスの隠語、なんじゃ、これって、感じ。残念ながら、ぼくにはよくわからん映画でした。

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