退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

キーウィ&ミミズ その2止め

 国内では、いまも天王寺動物園でしか見られない世界の珍鳥、キ‐ウィ。


(イラストはGoogle画像検索から引用)


 初めてニュージ―ランド政府から万博記念(1970年)に贈られてきたとき、主食がミミズとわかり、エサの確保に動物園はてんやわんやの騒ぎでした。そのころの見聞と、その後のことを動物園協会の季刊誌『なきごえ』を参考にお伝えします。


 当時は、まだミミズの生態がよく知られておらず、養殖の仕方、生きたまま備蓄する方法なんか、わかっていませんでした。動物園側では、降ってわいた新しい挑戦に頭をひねりました。



(イラストはGoogle画像検索から引用)


 当時、すでに大阪市内は都市化、アスファルトに覆われた街なので、おいそれとミミズが棲息するところがありません。若い職員を中心に「ミミズ採集隊」を編成し、河川敷や郊外の山林にスコップを持ってミミズ探しにでかけましたが、あまり戦果がありませんでした。


 困っている動物園に、いろいろなアイデアが寄せられました。地面に水を撒いて濡らしたあと、両端に陽極と陰極の棒を指しこんで電気を流すと、しびれたミミズが地表に出てくるという話がもちこまれて、甲子園の芝生で実験しましたが、効果はえられませんでした。


 また、水を撒いた地面を棒で調子よくコンコンと叩き続けると、ミミズが現れるという民間に伝わる?知恵も試してみました。ミミズは雨が降り出したと勘違いして出てくるそうですが、これもうまく行きません。笑い話のようなことも真剣に試みました


 こんな計算をしたミミズの研究者ががいました。なにしろキーウィ二羽で一日約1㌔グラム食べるとすると、一年間に146㌔グラム食べることになります、1㌔グラム約3000匹とすれば、年間約43万8000匹ものミミズが必要です。想像するだけでも、体がムズムズするようなミミズ魔界ではありませんか。草地で数匹見つかったくらいでは、お話にならないのです。


 園長に「ミミズがいる地方から送ってもらったら、どうか」と持ちかけて、それを「キーウィのエサが困っています。ミミズを贈ってください」という記事にして、社会面に大きく掲載しましたところ、ミミズがいっぱい集まったことがありました。


 広島から小荷物が航空便で届いたり、小学生がミミズ数匹を入た牛乳瓶を園まで持参してくれたり。親切な人々が思い思いにミミズを採って送ってくれました。持参者と郵送分で二百件を超す反響がありましたものの、着払いの郵送費が予算外の出費となり、続けられませんでした。


 キーウイ担当の女性飼育員は、「国際親善の責任」を背負って、プレッシャーの重圧に苦しみながら、「ミミズ・ミッション」に没頭しました。園舎の裏に土盛りして、残飯や生ごみを埋めて、何杯ものバケツの水を撒いて、ミミズ畑を作りました。何日かたって堀り返してみると、細いミミズが見つかり、大喜びしましたが、その程度ではエサになりません。


 ミミズの話を新聞で知ったというアメリカ人の歯科医が熱心に「ミミズ繁殖法」を教えにきてくれました。この奇特なアメリカ人は指導のために数回、動物園にきてくれました。要するに、ミミズ好みの土質があるはず、それを開発することだということで、女性飼育員らは、動物園でしか出来ない工夫というか、いろいろな飼育動物の糞を混ぜてためしてみました。


 その結果、草食獣の糞と野菜クズを混ぜて、積み重ねてゆくやり方がミミズ好みとわかりました、なかでもサイの糞はミミズ好みでした。サイの糞はウマと同じように咀嚼が粗く、栄養分が糞に多くふくまれていたのです。でも、サイの糞は限られています。ミミズはタンパク質が好きなんだと養殖の記録に残されています。


 こうしたミミズ畑は10か所にもなり、糞や生ゴミの運搬、散水などに努力した甲斐あって、翌年の春には、たくさんのミミズが収穫できるうようになりました。しかし、せっかく作ったミミズ畑が、動物園の改修工事と重なり、キーウイ園舎から遠い、水場がないところにミミズ畑を作り直すという辛い経験がありました。


 担当の女性は、夏の暑い日も汗水を流してバケツで往復の水運びをしたり、寒風吹きすさぶ冬場も生ごみや糞運びをやり通しました。ミミズは雌雄同体で栄養のある土質さえ行き届ければ、一年を通して産卵し、「ネズミ算」ならぬ、「ミミズ算」と言っていいくらい繁殖力があることが分かりました。


 たくさんのミミズを養殖できるようになっても、思わぬ落とし穴がありました。ミミズ畑で、なにかミミズにとって不都合なことあると、一夜にして数百匹のミミズが姿を消してしまうのです。仲間うちで独特のセンサーがあるのか、こういう共同行動をとるらしいので、土を掘り返すまでは不安なことです。自給自足の道が開けるには、あと一年かかりました。


 こんなこともあって、動物園では、ミミズばかりではない代用食の研究も怠りませんでした。どんなものがキーウィの口に合うか、試しました。牛、馬、鶏、羊、ウサギの肉、ドッグフード、卵黄,蒸し卵、キャベツ、レタス、ニンジン、パン、それに、リンゴのすりおろしなんも与えてみましたが、リンゴのすりおろしに興味をしめしたくらい、あとのもの全然無視されたといいます。


 食材の幅を広げる努力は動物園にとって長く重要な課題でありましたが、いまでは、ミミズはもちろんですが、牛の心臓をミミズ状に細長く切ったものに、ビタミンやミネラルの栄養剤などを添加して食べさすことに成功しています。


 最後に、女性飼育員と最初のキーウィ、ニュージ―ちゃんとの間に芽生えた世にもまれな友情を披露しましょう。


 女性飼育員は、ニュージ―ランドという島国に約七千年前から生き続けてきたキウィを世話する使命感にあふれていましたので、どんな苦労も厭うことなく頑張りました。


 キウィは活動するのが夜ですから、女性飼育員も昼夜逆転の仕事になります。主な世話は当然、夜間になります。外は真っ暗、静かな園舎のなかで掃除をして、エサの支度しながら、独り言のようにニュージちゃんに話かけているうちに、人間と鳥の間に想像もしなかった信頼関係が生まれました。


 はじめのころは、園舎に入ると、警戒して巣穴にこもっていたキーウイも次第になれて、足元を「フン、フン」と鼻を鳴らしながら、ついてくるようになりました。時には「キーウイ,キーウイ」と甲高い声で鳴くこともありました。園舎で鳴いたことがありません。自然界にいるように名前の通りの鳴き声で鳴くようになってきたのです。環境に順応してきたのです。


 『動物園70年史』(1985年=昭和60年発刊)に所載のこの女性の上司の記録によりますと、キウィのニュージーちゃんと女性飼育員の友情はどんどん深まり、1978年(昭和54年)の12月23日、クリスマスにちなんで『聖しこの夜』を口ずさみながら、園舎に入ったところ、ニュージーちゃんが、その声に合わせるように「キー、キー、キー」と鳴いて、まさしく、一人と一羽の合唱となりました。


 最初は単なる偶然と思われましたが、その後も口ずさむと、ニュージ―ちゃんも鳴く行動が続きました。「キーウィが人間とのコミュニケーションを求めて鳴く行動」は、説明がつかない不思議な現象となりました。


 上司は、この女性からの報告を聴いて、まさか、という思いで一晩、キーウイ園舎に入ってみて、この奇跡のようなコーラスを確認できたと驚いて、記録をのこしています。



「わずか30センチほど離れた場所でも、歌声に合わせて、ニュージ―ちゃんも合唱しました。終わると、満足げに水を飲み、足元を歩き回り、衣服をくわえたりしました。合唱する歌は、『赤とんぼ』、『やしの実』、『荒城の月』など、スローテンポの曲がニュージ―ちゃんの好みでもあったそうです。」


 それにしても、夜の静かな動物園で女性とキーウィがひそかに合唱していたとは!!驚くべき記録です。この神秘的な合唱は、女性飼育員が1982年(昭和58年)春にに定年退職が来る日まで続きました。


 その後、ニュージ―ちゃんは、1993年(平成5 年)4月16日に老衰死するまで、じつに22年9か月間、天王寺動物園で生きたのです。このキーウィの長寿記録は、それまでのロンドン動物園で飼育された19年1カ月を3年8カ月も上回る記録更新となりました。贈呈国ニュージーランド政府、動物園との間に特別友好な関係を築く礎にもなりました。


 これは最初の飼育担当者になったKIさんが、十数年間、骨身を惜しまない献身的なケアを尽くされた成果にちがいありません。

×

非ログインユーザーとして返信する