退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

信じるか,どうか

 高校生の頃、人並みに「人生,なんためにあるのか」とか、「どう生きるか」とか、いろいろ心を悩ませたことがあります。


 近くに聖公会のキリスト教会があったので、日曜礼拝に出席したことがあります。讃美歌を歌ったり、牧師の説教を聴いたり。終わりに牧師は一人ずつにキリストの血と肉を意味する薄いビスケットみたいなものと、ワインのようなものを口に入れてくれました。


 これを聖体拝領というらしいのですが、ぼくは、この瞬間、こりゃアカン、と思った。子供だましみたいだな、と呆れたのです。いらいキリスト教に触れることはありません。


 別の日、はるばる京都宇治の禅宗の名刹、黄檗山満福寺を訪れた。広い境内をうろうろして、大きな魚の形をした吊り物が天井からぶら下がっているのに気が付き、何度か叩いてみましたが、誰も出てこない。しーんとした静寂のなかで、なんじゃい、これって、と妙に納得して帰りました。


 浅はかな思い込みかもしれませんが、そういう経験から宗教とは無縁です。信心もとくにありません。しかし、オルガンで弾く賛美歌は好きですし、白隠禅師の講話(山田無文著)は、ずっと愛読しています。


 後年、連れ合いと四国一周の歩き遍路をしましたが、弘法大師には申し訳ないが、健康のためと物見遊山のような巡礼でした。高校の時いらい、宗教よりも小説や映画の方が人生について興味深く、いろいろ学びました。


 あの頃、のちに文化勲章をもらった作家丹羽文雄の『蛇と鳩』を読んで、宗教の内側にあるからくりを知ったのも、宗教と遠ざかる影響を受けましたね.丹羽文雄自身、お寺の子で本来は住職をつぐ身でしたが、作家に。当然、宗教ついて思索を深めています。


 『蛇と鳩』は、虚業家が新興宗教を起こして、ぼろ儲けする物語でした。人間がもつ内面の弱さや生老病死に関わる問題は宗教と密接ですが、その救済に現世的ご利益をからめると、宗教の仮面をかぶったカネ儲け本位の組織が、容易に生まれるのです。


 宗教には人間の魂を救う大きな役割があり、決して否定するものでありません。もちろん、他人が何を信仰をすることになんの異論もありません。


 さて、例の統一教会問題。キシダメ政権は、ようやく「質問権」を行使して、教会側から事情聴取しようとしています。オウム事件のあとで出来た法律の初適用ですが、すでに公布されていたのだから、電光石火、アへの銃撃事件後、浮かび上がった統一教会にすぐにでも行使すればいいのに、やっとこさです。


 教会側は、すでに証拠隠滅、口裏合わせ、緘口令など対応策を十分に講じているはず。こ
れは、ほじくり返して火の粉がいっそう降りかかるかもしれない自民党との間の出来レースではないか、とおもっています。ほんとうに法人格を解散できるのか。


 オウム事件のとき、オウム教団は、なにか怪しい振る舞い、数々の法律違反を重ねているのではないか、という疑問をもった人は少なくなかった。しかし、憲法で保障された「宗教の自由」という錦の御旗のまえで捜査当局も立ちすくんで、結局、地下鉄サリン事件という大惨事を招きました


 明治政府が、神道を国家宗教に格上げしていらい、神道賛美一辺倒、批判は一切できず、その後は戦後の「宗教の自由」化と重なり、宗教教団は、一種の聖域となっています。


 宗教団体の教義というのは、なんであってもいいのです。イワシのアタマを信じても、裏山や奇態な岩をご神体にしても、それは自由です。処女が懐胎しても、死者が復活すると言っても、杖を突いたら温泉がわき出し、池が生まれた、病人が元気に歩き出す例があるという法話でもOKです。


 日本は「悪魔の国」で、韓国は「神の国」と主張するのも自由です。非科学的であっても、荒唐無稽でもいいのです。それを教義とし、信じるのは、まったく自由で、他人がとやかくいうべき筋合いはありせん。ここまでが、内面の自由、つまり「宗教の自由」です。


 しかし、その教義を信者をふやそうと、他人に力づくで押し付けたり、病気が治る、金運が高まると説得し、その見返りに多額の献金(寄付)を強要したり、宗勢を広げるために組織的に人を監禁したり、詐話で儲かる話を持ち出したり、洗脳したりすると、これは宗教の範囲を逸脱します。宗教活動を装ったものせよ、「外形的な言動」が公序良俗、所与の法令に反するようなものは、宗教の自由として保護されるものではありません。


 この正当な「内面の自由」と「外形的な活動」の部分との境界線が、あいまいで、しかも閉鎖的に巧妙に行われると、なかなか宗教活動なのか、反社会的行動なのか、わかりにくい。たいがいは対面で、しかも第三者がいない場所で説得されたりします。ですから、なんらかの理由で心が折れたり、病んだり、失意の人には、反社会的行動か、どうかの判断さえできないものです、そこを付け込まれる。


 ぼくの次女は、がんで50そこそこで早逝しました。しっかり者の娘でしたが、いつのまにか、20分20万円払えば、病気がよくなる講話するなんていう妙な女性が近づいて、危うく、その話に乗りかかっていました。幸い、友人が注意したので、気を取り直したのですが、あの賢い娘が、そんな話にまで気持ちが弱り、なにかにすがっていたのかと、がく然とし、かわいそうでなりませんでした。溺れる者は、わらでもつかむ、というには真実です。


 宗教は、信ずる人には大きな力があります。アへを撃った山上容疑者の母は、自殺した夫の悪霊に悩まされたが、献金するたびに悪霊が消えたと言っているそうです。自宅を売り払い、相続財産を献金して、その額は積もり積もって一億円。母は、息子の事件を知っても信仰心は変わらぬと伝えられています。マインドコントロールは、鉄の鎖のように強固ですね。


 古来からの宗教は、だいたい生きている間に精進すれば,来世は幸せになると信じられて来ましたが、現在は新興宗教を含めて、今がラクになる、いまが幸せになるという現世ご利益を強調しています。そんな、うまい話が転がっているはずがありません。


 ましてや、政治家が、そんなうまい話をアト押しする広告塔になり、その代わり一票をもらっていた構図は、たいへん危険です。創価学会も、興隆期にはずいぶん乱暴な折伏や仏壇を外に投げだして壊すというなことをやっていて、ぼくも目撃したことがあります。


 その創価学会を土台に平和と福祉をスローガンにしたはずの公明党です。本来の結党精神からいえば、戦前の軍国主義復帰を目指し、敵基地攻撃能力を保持するという自民党と手を組んでいることが不思議です。はたから見れば、学会は選挙応援の会のように見えます。好戦的な自民党と組むのは、公明党と学会に、どんなご利益があるのか、知りたいものです。


 統一教会の野望は、国会内に統一教会を設け、統一教会を支持する国会議員で埋めつくし、政府は統一教会の施策を実施する機関とすることでした。アへは、その野望の片棒を担いでいたのです。自民党は,統一教会内部の政治団体だったのか、と思わせる癒着ぶりです。


 アへは、「政治と宗教の分離」という憲法上の規定を理解していなかったのでしょう。あやういところで、アへの野望はつぶれました。山上容疑者の銃撃は、政治の世界の真っ暗闇に大きな穴を開けた結果となりました。


 宗教にしろ、人にしろ、政党にしろ、信じるかどうかは、難しいものですね。いいトシしてても、そう思います。

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