退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

墓参

 

                          (墓地の入り口付近.見えるのは山と田んぼと六地蔵)



  連れ合いが、何ン十年ぶりかで父母たち代々が眠る田舎へ墓参することになりました。「敬老の日」のまえですが、気が強い人なので言葉に洩らしたりしませんものの、心の中では、年齢的にもラストチャンスだと思っている様子がうかがえました。


 話が出ると、長女と亡くなった次女の二人の婿殿が車で運んでくれるということになり、3家族6人が、2台の車で行きました。昔は帰省というと、二人の幼い娘を連れて、紀勢線の遠い鈍行駅まで、または高速道路がなかったときなので、山あり谷あり、海岸よりの国道を半日かけて送っていったものです。


 いまは、婿殿たちの達者な運転で、予定なら3時間で着くはずだったのに、前途で多重衝突事故が起きたとかで、暑い高速道路上で一時間を超す立ち往生、やっとこさ下道に降りられて、そこから国道沿いをのろのろ道中。途中で合流するはずの連れ合いの妹と弟と行き違いがあったりして、結局6時間ものお疲れドライブの末、生まれ故郷の墓地の到着しました。


 周囲を山に囲まれ、どこにも人影はありません。中央に大きな川が流れて、両岸のわずかばかりの平地は田んぼだけ。連れ合いと知り合ってから、60年以上たちます。当時、水道がまだなく、朝、谷水で顏を洗っていると、目の前に鹿が現れて驚いた記憶があります。変わったのは、吊り橋みたいだった橋が改装されて、田んぼ道が舗装されているだけ。おそらく百年後も変わらぬ過疎地の風景でしょう。


 山裾にある無人寺。境内にサルスベリの赤い花や巨木になった銀杏の木、ひな檀になったこじんまりした墓地の片隅で、代々の墓に妹弟が用意したくれた花を供え、線香をあげて、念願のお参りを果たせました。


 赤トンボがとんでいます。大日本帝国陸軍軍曹、なんとか氏の墓石とか、忠魂の碑とか、在りしの時代をしのぶ墓が並んでいます。こんな地区からも、若者たちが召集され戦死しています。無人寺の本堂は、施錠がなく、入れます。壁には軍服姿の戦死者の生前の写真がたくさん、色あせて掲げられています。バカげた国策に駆り立てられて、命を絶たれた気の毒な人たち。たぶん、近縁者がお参りすることも途絶えているのでしょう。


 墓参という習俗は、庶民にとっては、いまや、せいぜい二代あとくらいしか継承されない感じ。うら寂しい無縁墓が多くあります。こういう光景をみると、世俗の世界は、作家、井伏鱒二が漢詩『勧酒』を自己流に訳した名句の後段を思い出します。


 ハナニアラシノ タトヘモアルゾ
 「サヨナラ」ダケガ 人生ダ


 連れ合いは、久々に会う妹弟との話が途切れません。自分たちの近況から、共通の知り合いの消息まで、どんどん広がっていきます。話の続きは、ホテルで一緒に夕飯でもと、持ちかけても、妹は夫が認知症でほっとけない、弟も今日は帰らなければならないと、それぞれに事情を抱えています。その弟は、3家族にズシリ重い自家産の米袋をお土産にくれました。「今度は、今回は会えなかった連れ合いの兄貴も一緒に合おう」と約束して別れました。田舎育ちの姉弟には、まだまだ血縁者同士のぬくもりが健在でした。


 連れ合いは、子どものころは怖くて上れなかったという墓地の坂をゆっくり上ったり下ったり、蕗(ふき)を抜いたり、浜木綿の種を拾ったり、中学生のとき植えたというバナナの木を見上げて、たたずんでいたり、古里にどっぷりつかっている風情でした。


 夜、ホテルで大海原を眺めながら、温泉につかり、生ビールと美味しい刺し身、あれこれしゃべりまくって、いい一日でした。連れ合いは、久しぶりの墓参や弟妹との再会があって、ますます長生きしたい気持ちを固めた様子でした。


 お墓参りをして、生きる力に活を入れられるとは、妙におかしいが、百歳超えは、ほとんど女性だから、せいぜい頑張って長生きしてください。

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