退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

夜ごとの夢

 旅に病んで夢は枯野をかけ巡る   


 俳諧師、芭蕉の辞世の句とされています。享年50。
 ご本人も周りも人たちも「翁」と呼んでいます。江戸時代は、いまよりずっと多くの乳幼児が亡くなったので、いわゆる平均余命は低かっただろうけど、50で「翁」というのは、なんぼなんでも大いに違和感を覚えます。


 「翁」というには、老齢という意識で見られるほかに、なんらかの功労があった人物が自他ともに認めて呼称したのかもしれません。


 さて、芭蕉翁が見た夢の枯野は、何を指していたのか。夢はおおかた「過去を振り返る」見聞体験を見る場合が多いように思いますが、「願い」とか「希望」のような将来に関わることも、とくに若い時には見ます。


 芭蕉は「これまで」の枯野を見たのか、なお生きて「これから」の枯野を見たのか。この句は亡くなる数日前の作とされていますので、おそらく来し方の枯野を夢にみたのに違いないように思います。


 それにしても、夢見るところが「枯野」というのは気になります。実り多い数々の事績を残しているので、夢見る枯野は、絢爛豪華であったのではないかと思いたいが、まさか「枯野」が「無常」という言葉に置き換えられるなら、心中は荒涼索漠なものであったかもしれません。病んだ床の中でのことですから。


 芭蕉の句を引いて、わが事を書くのは僭越で厚顔無知ではありますが、近年はじつによく夢を見ています。トシを取ると、こんなにも頻繁に夢を見るのかと驚きます。まったく夜ごとに見てます。感覚的には、短い時間だと思うのですが、夜半に目覚める前はたいてい夢を見ているような気がします。


 夢の中身は、趣味で歩いた山登り、締め切りに追われ苦戦した仕事、離婚し生別した母親、よく見る映画のこと、陸上競技に明け暮れた子どものころのことが多い。たまに娘や二人の孫、そして食事やアルコールのこと。面白いことに性のことも時々は。


 夢とはいえ、アタマが後期高齢者であることを自覚しているらしく、これから先の願いや希望といった前向きなものは、まずない。また幼い子どもにありがちな夢のなかで泣いているような悲哀感があるものもほとんどない。


 家人によく夢を見ると言うと、「運動不足で熟睡できないのでしょう」とか「アルコールのせい」とか、あまり取り合ってくれない。自分では、多分、このことが原因で、浅い睡眠のなかで頻回夢を見るんだろうと推し量っていることがありますので、次の機会にふれてみます。

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