退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

コロナ禍で思うこと

 コロナ禍がすさまじいイタリア北部。そこからの外電に高齢患者の光と影が伝えられていました。とくに影は気になる深刻な情報です。


 光の方は、102才にもなる女性が感染したが、無事退院にこぎつけて、「嵐の中の希望」だと医療関係者が喜んでいるという。よかったなあ。


 一方の影というのは、人工呼吸器や受け入れベッドのキャパがいっぱいなので、高齢患者を放置、若い人へ振り向けているという医師の苦渋の決断です。これは残酷です。


 さしづめ、わが身が感染すれば、80代なので医療機器が足りない、ベッドがないとして治療から外されるにちがいない。こんな判断が許されるのか。


 医療の世界には、トリアージという戦略があって戦禍や大規模災害の際には多数の患者がいる場合「命が救われる可能性が高い」者を優先治療します。判断の基準は、救命できるかどうかであって、性別年齢、老若は関係ない。なぜなら命は、生きてる限り、すべて平等だからです。


 イタリアでの患者の年齢よる選別は正しいかどうか。この選別には「年寄りは先がない」、「もう生産性がない」などといった考えがあるような気がします。であれば、これは心身の障碍者は「生きていても役立たない」と言って、大勢の障碍者を殺傷した青年と同様の優性思想ではないのかな。


 日本には昔から棄老伝説があります。深沢七郎の名作『楢山節考』はそれを題材にしています。貧窮にあえぐ山里で老母のおりんは70才になると、山に捨てられます。食い扶持を減らすためで、親孝行の息子は泣き泣き、おりんを背負い、雪山に棄てに行きます。


 この話で特異なことは、捨てられる、おりんらの親世代は、村の習わしが体に沁み込んでいて、進んで捨てられることを覚悟していることです。自分が生きていたら、家族みんなが飢えてしまうことが分かっているのです。


 幸い、私は、おりんでない。おりんが生きた境遇でもない。新型だろうと、未曾有の未知の感染症であろうと、蔓延すれば高齢者から先に治療対象から外す、外されるという共通の価値観は受け入れられない。


 イタリア北部で、仮に私が治療対象外とされたら、私は抵抗する、まず仮処分を求め訴訟を起こす。特別に生に執着しているわけでないが、加齢という本人の意志や努力が及ばないことで、差別されるのは困る。


 それとも「カルネアデスの板」の原理にならって、若い患者を一人追っ払って、人工呼吸器にありつくか。カルネアデスの板というのは、古代ギリシャの哲学者の同名の人物が設定した課題で、こんな話です。


 海難で船は沈没、一人は舟板につかまり助かっていますが、そこへ他の一人がつかまりにきます。二人も板につかまると、沈んでしまう。そこで先につかまっていた者が後から来た者を突き放して、溺れ死にさせてしまう。


 さて、助かった者は罪に問われるか。結局、自分の権利が奪われかねないときは、それを守るため、他者の権利を奪うのはやむをえない、、、という判断になり、現代の「緊急避難」という法概念の一つに上げられています。


 もっとも感染して寝込んだときに、そんな明解な意志や体力が備わっているかどうか。
ムリだろうな。 


 アメリカでは自動車メーカーに人工呼吸器を早急に量産するとよう大統領命令が出されました。車の部品と人工呼吸器が相通じるところが多いそうだ。


 文明社会での「カルネデアスの板」というのは、こういう知恵のことだと思います。イタリアの医師の悩みも解消します。「和牛券」や「お魚券」を配るなどいう、安倍政権の浅はかな発想では、感染者も健常者も救われない。

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