退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

わが人生のラーメン譚

 長生きすれば、アタマが澄むというわけでなさそう。世間の波風にあれこれ煩悩が浮かんでは消え、腹も立つが、悲しくもあります。たまには、ささやかだが、楽しく、うれしいときもあります。とりわけ、ちょっとしたことから昔のことを回想しているときは、いい気分になれるみたい。


 さて、この間、「サッポロ一番ラーメン」を初めて食して、その絶妙なスープの塩加減の旨さにびっくり。インスタント・ラーメンは、ずっと「サッポロ一番みそラーメンに限る」。これぞ「袋ラーメン」のチャンピオンと勝手に決めていましたのに、ぼくのなかでライバルが現れた感じ。


 家人が不在なので、スーパーで「みそ」を買うつもりで行きましたが、同じ棚に「塩」の袋を見つけ、はじめて「塩」に挑戦してみた。このひらめきは当たり。「みそ」を凌ぐとも劣らない味です。他のものにほとんど見向きもしなかったので、「塩」の存在に気がつかなかったのです。「塩」には気の毒なことをしたものです。


 かくして、僕の個人的な袋ラーメンのベストランキングは、「サッポロ一番みそ」、「サッポロ一番塩」、「チキン・ラーメン」の順に組み替え、「出前一丁」をトップスリーから外すことにしました。


 お気に入りの「サッポロ一番みそラーメン」は、二十代後半の勤め人のころに売りに出された。当時、本場の店舗経営による札幌ラーメンの全国展開がものすごい勢いで広まるのと波長を合わせていたのか。発売元のサンヨー食品は元は群馬が主体だそうだから、「サッポロ」のネーミングは、丼ものの「札幌ラーメン」人気にあやかったのかもしれない。


 エッセイイストの森下典子さんは、はじめて「サッポロ一番みそラーメン」を食べたときの感激を、こんなふうに書いています。(『わが人生のサッポロ一番みそラーメン』から)


「私はインスタント・ラーメンが新たな時代に入ったと感じながら、どんぶりの底のスープをきれいに飲み干し、額に汗をかいた」


 彼女は、モヤシ、ニラ、玉ねぎなんかを別の鍋でジャーッと炒め、みそラーメンの上にのせて食した感想を「インスタント・ラーメン界のスタンダード」が登場したと激賞しています。みそのコクがあるのに、さっぱりしているとも述べています。ぼくの感じたことを代弁してくれるようで、うれしい。


 袋ラーメンで最初に出たのはチキン・ラーメン。これは学生時代、便利さに感嘆して、3分間をじりじり待ったり、よく酒の肴にポリポリ、音を立てて食ベました。お世話になりました。


 作家の曽野綾子さんは、昭和三十年はじめころ、知人が試食してほしいと持ち込んだインスタント・ラーメンを「おいしい」と太鼓判を押したうえ、こんな感想も書いています。(『ラーメン時代』から)


 「夜食や携帯食糧にうってつけだと思うと私は答えた。誰よりも昔の兵隊達は泣くだろう。もう十五年早くこういうものができておれば生米を噛ることもなく済んだのだから」


 曽野綾子の作風は好きでないが、この兵隊達への思いは共感できます。先の大戦で死んだ将兵の六割は、補給が断たれた前線で餓死したという記録があります。その限りでは無謀な戦争による無駄死にです。


 敗戦後の「ギブ・ミー・チョコレート」世代であるぼくは、しょっちゅう進駐軍兵士につきまとって、ガムやチョコをもらった。当時、国鉄大阪駅付近で育ちました。混沌と猥雑、百鬼夜行の闇市、浮浪者がゴロゴロ寝てました。すさまじい修羅場の世界です。いいも悪いもない。いつも腹をすかしていました。


 日本人の若い女が棒のように背が高い兵士の腕に絡みついていました。「パンパン」と呼ばれた彼女たちが売っているものが何か、子ども心に理解してました。彼らが連れ立って入る宿があちこちにありましたし、電信柱を背にして狂態の現場を目撃したこともあります。


 米兵たちが茶色の紙袋を抱えているときがあり、それはぼくにとって絶好のチャンスでした。宝物が入っているように思える缶詰をもらえたからです。ぼくはそれを「レーション」と聞き及んでいました。後年、レーションとは野戦用の携帯食糧の意味と知りました。いまの鮭缶の二倍くらいのサイズ、濃緑色の缶でした。


 レーションは、便利なことに缶切り付きでした。それだけも驚きです。フタを開けると、コンビビーフ、あるいはジャアーキー、ビスケット、チョコ、キャラメル、粉末コーヒー、砂糖、ミルク、それらをかき回す匙まで入って至れり尽くせりでした。


 気前のいい米兵から、これをもらうと、ぼくは三日間くらいかけて、ちびちび食べ、そのおいしさに言葉もありませんでした。アメリカ人はすごいものを食べている、こんな贅沢なものを食って戦争してる、すごいなあとアメリカへの憧れを膨らましたものです。そういえば、ガムなんか噛みつくしたヤツを紙片に包んで隠しておいて、翌日また噛んだりした。


 後で思い返すと、こんな恥辱にまみれた女性や戦災難民みたいな、ぼくような経験を強いた敗戦国の為政者たちが、ねぎらいやお詫びを口にしたことがない。戦後、もう戦争はこりごりだったはずが、今また逆戻りさせようとする勢力があります。旧来の領土拡張的帝国主義というよりも、経済力起爆や国民統治の手段にされているのが気になります。


 十代後半の高校生のころ、友人宅によく泊まりにいきました、彼は父親がおらず、母親が盛り場で飲み屋をやっていた。夜行くと、友人独りとあって、ギターなんか振り回して大騒ぎしても大丈夫でした、


 夜が更けてくると、腹がへる。きまって近くの国道筋の街路樹の下に出る屋台のラーメンを食べに行った。タクシーの運転手や、その乗客の酔客や女たちが立ち寄っていて、大人の雰囲気に包まれて、すすったラーメンはおいしかった。


 いま思い出したが、当時ラーメンと言ったかどうか、中華そばと言っていたような気がします。お決まりの薄いチャーシュー、ナルトが浮いていて、ネギがたっぷり。お代は50円だった。屋台の脇に置いてあるバケツの水で何度も鉢を洗ったりして、いまなら衛生が問題だろうが、そんなことは少しも気にしなかった。


 二十代半ば、勤め人になって、内勤をしているころ、地下街に札幌ラーメンの店舗ができた。昼休みはあってないような会社だったので、早くてうまい、このラーメン屋のカウンターによく通った。昔の屋台のラーメンよりもスープが濃く、やや細麺と絡んで、実にうまかった。


 夜勤の時は、社屋のそばで毎晩おそくまで頑張る屋台ラーメンから缶ビールとラーメンと出前させるのが常でありました。屋台に名前があったかどうか。出前を運んでくる老人が禿げていたので、「禿げそば」というニックネームで呼んでいた。


 午前二時過ぎると、夜勤仲間で注文をまとめ、二階の窓から「おーーい、缶四つ、ロング二つ、ラーメン六つ」、大声で頼んでいました。


 ラーメンがおいしく食べられるうちは、幸せです。

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