退屈な80代

還暦、古希、傘寿を過ぎて 日々思うことを綴ります。

おばあちゃん道

 習いごとを教えてもらっている先生に初孫が生まれました。
 先生は62才。おばあちゃんになる年齢としては、普通なのか、やや遅いのかな。「おサルさんみたいな顔して」とやや照れた風情ながら、うれしそう。


 二週間後にお会いすると、ころりと変身。「可愛いい、可愛いい。めちゃっ可愛いい」とオクターブが大上昇中。


「娘さんと赤ん坊、もう婿殿のところに帰ったんですか」
「いやいや、自立心の弱いヒトなので、赤ん坊の面倒もようみきれない。まだまだこっちにいるよ」と長逗留がうれしいそうです。


 華道や茶道ならぬ、孫の世話を焼く「おばあちゃん道」に本格的に打ちこむ意気込むようです。もうできるだけ長く実家にいてもらい、育児の先輩として、ミルクの加減、おむつの替えどき、泣き声の解釈などなど、、、昔取った杵柄、経験やら知恵やらを伝授したい様子のようです。おばあちゃんになると、新たな生命力がわいてくる感じです。


 私も孫二人に恵まれました。人並みに喜んだし、可愛いさに夢中になったりしましたが、孫を手取り足取り細かく世話を焼くというような使命感は起きなかった。孫ができたから、あとひと踏ん張りとか、ひと花さかせようとも思わなかった。何しろ、すでに退職して、漂流の身でした。


 動物の世界では、メスはサケやアユのように、産卵すると死んでしまう。孫の顔をどころか子どもの顔も知らない。哺乳類でも血統が保証された馬や犬は祖母と孫の関係がはっきりしているけれど、祖母馬も祖母犬も孫になんの関心もなさそう。


 そこで思い出すのは「おばあさん仮説」という話。ヒトの女性は子供を産む能力がなくなったり、子育てが終わっているのに、なぜ長生きしているのか。どんなメリットがあるのか。こうした観点から、文化人類学か社会学かの領域では、「おばあさん仮説」といわれる理屈があるそうです。


 こんな感じです。古くは狩猟採集時代の人類の家族にとって、その日その日の食糧確保と子孫の保存・繁栄が最大の難事業。食べていくためには妻も採集に出かけると、その留守を守る、なくてはならぬのが、血縁の祖母の役割。孫にあたる子どもを守り、食事の世話を焼いたことだろう、、、他の動物にはないおばあさんの役割が長い進化の過程で、人類が他の動物から抜きんでた存在に成長したのではないだろうか、と。


 おばあさんの存在は人類の発展に大きく寄与したという話ですが、では、祖父の役割を評価した理論があるかどうか、オスのクモやカマキリは交尾の最中、メスに食われてしまう。その栄養は子どもに提供されるというから、これほどの献身はないだろう。


 それにもかかわらず、オスの評価は低い。どの動物にしても男性(オス)は、子孫を残す生殖活動には命がけで頑張るが、その後のことは、知らんぷり。この点が減点の元か、


 少し前、アメリカの初の女性大統領を目指したヒラリー・クリントンは立候補直前に初孫が生まれて「これまでで、一番うれしい”おばあちゃん”という称号をもらった」と公開し、初の”おばあちゃん大統領”に向けて、いっそう発奮しました。どうも、孫の誕生と同時に”おばあちゃん”になる喜びは、特別のものらしい。


 さて、生産能力が無くなっても長生きする男性は、人類にとって、どんなメリットがあるのか。田んぼの向こうに山と川があるような風景が百年変わらぬのころは、集落の古老や町の長老は、すべておじいちゃんであっただろうが、いまや、語りつたえる伝承や慣習は古色蒼然。若い世代を抑える権勢はない。


 とはいえ、ぼくも、いつのまにか爺さんになった。今の時代におけるお爺さんの存在意義を評価する「おじいさん仮説」が欲しい気分ですが、、、、ないかな。ないだろうな。

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